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東郷隆さんを陶然とさせた米軍基地のポテトチップ

©GettyImages

 父の仕事の関係で子供の頃、神奈川県の内陸部へ引っ越した。そこは今、何かと注目を集めている「国道十六号線」沿いである。

 新しい学校には全く馴染めなかった。しかも、転校早々、給食で食中毒にかかり、生死の境を彷徨った。

 当時、地方の学校の給食というのは「煮豆の醬油炊き」とか「煮魚」という、今思えば居酒屋の突き出しみたいなものが多く、これをあの悪名高い「脱脂粉乳」と数時間で固形化するパンとともに食べる。ほとんど苦行に近いものだった。食中毒の原因も、作り置きした煮豆の上を鼠が歩いたサルモネラ菌感染で、それは完全な管理ミスだった。

 流石にこれはひどいと学校側も感じたのか、妹が入学した頃、本格的な給食改革が始まった。

 牛乳がテトラパックに変わり、食パンが出た。しかしどういうシステムなのか、我々高学年は、依然として脱脂粉乳と固い「コッペパン」支給で、これは卒業まで続いた。

 同時期、テレビが各家庭に普及し、アメリカのホームドラマが次々に放映された。そこには見たこともない料理が登場し、しかも、出演者がそれをひどく雑に扱う。

 パイやケーキを人にぶつけるのは毎度のことで、ダメな主婦が巨大な肉を黒こげにしたり、ミルクを盛大に流すシーンが、頻繁に映し出されていた。

 こういう演出は、まあ、あちらのドタバタ映画のお約束事、と子供心にもわかっている。が、我々は文字通り食い入るようにそれを見続けた。

 父親はそんな私を小馬鹿にして、

「アメリカの食べ物はくだらんぞ。量ばかり多くて大味なものばかりだ」

 と言った。それも当時の大人のお約束言葉である。

 言われるまでもない。なにせ我々は、そのアメリカの貿易交換物資であるクソまずい脱脂粉乳を、半強制的に飲まされていたのだ。

 さてまた、その当時、国道十六号線沿いでは、子供たちが大興奮するイベントがあった。

 在日米軍には(現在もあるのだろうか)「三軍統合記念日」と称する基地の特別公開日があり、地元民との交流を目的とした、軍人家族の盆踊り、バザー、基地内の装備品展示等が行われていた。

 学校教員の中には基地反対運動に携わっている者も多く、彼らは生徒が米軍に近づくことを極度に嫌った。

 が、そんなことでひるむヨコハマの子はいない。イベント当日は仲間を誘い合い、微かな小遣いを握りしめて、電車に乗った。

 フェンスの向こう側は、なるほど別の土地だった。白い兵員住宅、青々とした芝生。滑走路には、頭上を飛ぶ姿でしか見たことのない航空機が、派手な塗装で駐機していた。

 同級生が興味を抱く対象もいろいろだった。

 ジェット機の脚部に触れて興奮する者も居れば、表示看板の部隊マークばかり子供カメラで撮る者もいた。私の場合は、やはり食べ物だった。

 灰色の格納庫が建ち並ぶ一角に、肉を焼く煙が濛々と立ち上り、そこがバザー会場である。ダンガリーシャツを着た海軍兵士が、鼻歌混じりにソーセージを焼いていた。

 私は初め、その兵士の腕に彫られたヌードの女性を凝視していた。兵士は私がホットドッグを欲しているものと思ったらしく、さっ、とパンにケチャップとマスタードを付け、焼き立てのソーセージを挟んだ。

 成り行き上、買わざるを得なかったが、それは当時としては結構高いもので、私の小遣い銭は一度に消えた。

 この時、兵士がナプキンをくるくると三角形にして何かを入れ、サービスに付けてくれた。

 これがポテトチップだった。一口囓って陶然とした。それまで芋フライのようなものは身近に存在していたが、これは形状ばかりが、油さえ全く別のものだった。

 その後はホットドッグの味も、ジェット機の感触もあまり覚えていない。あの薄べったい油揚げのポテトが、私にとって本当のカルチャーショックだったようだ。

 やがて中学生になり、そのポテトチップが、基地の近くにある工場で大量に作られていることを知った。国内の大手メーカーも、数多くの製品を販売するようになったが、袋にフラダンサーの絵を描いた、重たいパームオイルを用いた、あのチップスの旨さは、対極にある脱脂粉乳のまずさとともに、長く私の脳内味覚を支配し続けた。そして、食文化の多様性についても、僅かながら考えさせてくれる糸口になった。