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生まれたてのような「見る」をくれる 「ゲルハルト・リヒター」

『ゲルハルト・リヒター』から「2016年7月2日(3)」©Gerhard Richter 2022 ゲルハルト・リヒター展は、東京・竹橋の東京国立近代美術館で10月2日まで開催中

 「私」とは何のことなのか。

 鏡を見ればそこに私はいるけれど、死後、もしも幽霊になったとしたら、私が生前の自分のこととして思い出すのは見た風景や、自分を見ている人の顔や、自分が見ていた誰かの横顔だろう。私にとって「私」とは、本当は自分自身の姿ではないのかもしれない。写真に写った自分が想定していたのと違う姿勢でいたり、電車の窓でふと、自分の知らない表情に出会ったり。私は私を知らないが、でも人生の中でほとんどずっとやっていることがある。自分の目で見ること。見たものは全て自分の瞳を通して、見たものだ。「見る」とは、私のこの体よりずっと私にとっては「私」であるのかもしれない。

 リヒターの作品の中で、引き込まれるものに出会う時、まるで自分の中の「見る」だけを引き摺(ず)り出されるような感覚になる。たとえば解釈や、たとえば共感や、そうした「私」という人間との共通点を作品に見出(いだ)して、そっと近付くなんてことは許されなくて、私は、私の「見る」という要素だけを体と心から抜き取られ、その「見る」快感だけでその作品を好きだと思ってしまう。自分が何を見ているのか、これまで何を見てきたのか、膨大な「見る」に埋もれて、それそのものが鏡に映る体の表面よりずっと「私」であるということに鈍感になってしまった人間に、リヒターの作品は生まれたてのような「見る」をくれる。「見る」がどれほど自分にとって刺激的で、そして「全て」だったかを思い出させてくれるのです。そしてリヒターの作品を見る時、私という存在がこんなにも剝(む)き出しになることはないと私は強く思います。=朝日新聞2022年7月16日掲載