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「大丈夫な人」 目を逸らしてきた弱さ見つめる 朝日新聞書評から

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2022年07月30日
大丈夫な人 (エクス・リブリス) 著者:カン・ファギル 出版社:白水社 ジャンル:小説

ISBN: 9784560090732
発売⽇: 2022/06/01
サイズ: 20cm/281p

「大丈夫な人」 [著]カン・ファギル

 本書は二〇一二年から二〇一七年にかけて書かれた九篇(へん)からなる短篇集だ。恐らく全ての読者が、読みながら愉快な気持ちになることはただの一度もないだろう。展開にワクワクしたり、気持ちが休まったり、クスリと笑えたり、心が和んだりすることもないだろう。終始感じ続けるのは、息苦しさ、居心地の悪さ、悍(おぞ)ましさ、憎悪、嫌悪、緊張と恐怖だ。
 「大丈夫な人」は、婚約者が購入した、人里離れた土地に立つ家へ二人で向かう話だ。それだけ聞くと楽しそうだが、主人公はその前週、婚約者に階段から突き落とされている。故意にではない(と言われる)ものの、どんどん矛盾が露呈していく彼の話に疑惑が湧き出していく。
 「部屋」では若い二人の女性が伝染病の蔓延(まんえん)する崩壊した都市に出て、肉体労働をしながらいつか素敵な家に住むためお金を貯(た)めていく。貧乏な生活、石灰で白い水道水、カビだらけの浴室、過酷な仕事、彼女たちの夢は次第に潰(つい)えていく。
 「雪だるま」では白い虫が大量発生する荒廃した村で、母に捨てられた兄弟が二人で暮らしている。静かな生活を送っていた二人だが、兄が好意を寄せる女性が家を訪れるようになってから、弟の人生は狂っていく。
 一貫しているのは、いずれの短編も女性、貧困者、子供、階級の低い人など、社会的弱者が主人公であるところだ。彼らは常に不自由で自信がなく、逡巡(しゅんじゅん)している。
 デフォルトマン(白人、ミドルクラス、ヘテロセクシャルの男性)という言葉が出てきた今、これらの視点で物語が描かれることには大きな意味がある。それは、弱い人の気持ちを知るための本、という意味ではない。デフォルトマンという概念は幻想でしかなく、デフォルトマンとはその幻想にすがる人々でしかない。幻想にすがってしまう弱さも含めて、不安や弱さを抱えていない人間などいないのだ。
 本書は、男女を問わず、私たちが大人になり社会化していく中で目を逸(そ)らし、私は大丈夫ですという表情を取り繕い、ないことにしてきた弱さと巧妙に隠される世の中の悍(おぞ)ましさに焦点をあて、各々(おのおの)の中で静まり返っていた澱(おり)のような不安を劇的に沸き起こす。
 そして本書は、私たちはどれだけ過酷な世界を、どれだけの不安を抱えたままサバイバルしなければならないのか、という地図のようでもある。自分をごまかしデフォルトマンに近づくことではなく、己を知ることによってのみ、人は弱さを受容し、弱いまま自由になれるのだ。
    ◇
Kang Hwagil 1986年、韓国生まれ。2012年に作家デビュー。他の邦訳に、長編『別の人』。本書収録の「手」は英国で刊行された韓国文学ショートストーリーシリーズに収められ、英語圏でも注目される。