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砂原浩太朗さんの読んできた本たち 星新一に出合い、小説が最上の存在に

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バディものに惹かれる

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

 人生ではじめて読んだ本が何なのかは僕も知りたいですが(笑)、いま思い出すのは、『ありこのおつかい』という石井桃子さん作の絵本です。子どものとき読んでいた部屋の様子などもセットで覚えています。アリのありこちゃんがおつかいに出て、途中でカマキリに飲み込まれ、そのカマキリがムクドリに飲み込まれ...という話でした。ありこちゃんはお腹のなかで生きていて、飲み込んだ相手が困るようなことを叫んだりする。子どもって反復が好きだから、面白かったですね。大人になってから、この絵本を図書館で再発見したときは感激しました。

 小さいころは保育園に通っていて、フレーベル館が出している月刊の絵本雑誌「キンダーブック」が届くのを楽しみにしていました。そのなかに「アンパンマン」の第一作があったんです。自分の頭を相手に食べさせて助けてあげる、という内容があまりにも衝撃的で(笑)。その後、シリーズが続いていることは知らなかったので、20歳前後のころアニメ化されると知って驚きました。友人に「こういう話なんだけど、どうやったら毎週続くと思う?」と話した記憶があります。そのとき相手はアンパンマンを知らなかったので、やはりアニメ化で一躍メジャーになったんでしょうね。

 児童書では、『エルマーのぼうけん』『エルマーとりゅう』『エルマーと16ぴきのりゅう』の三部作が好きでした。同じ本を繰り返して読むことはめったにないのですが、これだけは何度も読んでいて、今でも当時の本を持っています。エルマー少年と竜の友情や別れが描かれるんですが、もしかしたら僕がバディものを好きな原点はここまで遡るのかもしれない。個性の違う2人がタッグを組み、いろいろな困難に立ち向かったり友情を育んだりする話が好みなんですが、それはこの後お話しするシャーロック・ホームズものの影響が大きいと思っています。でも今回、この取材を受けるにあたっていろいろ思い出すなかで、エルマーシリーズの影響もあったのかなと考えました。

 このシリーズの作者ルース・スタイルス・ガネットさんはかなりのご高齢なんですが、2018年に来日されたんですね。新聞にイベントの告知が載っていたので喜び勇んで応募したんですが、すでに満席。あれは本当に残念でした

――振り返ってみて、どういう子どもだったと思いますか。

 友達と外で野球をしたり、近くにあった城跡の石垣から飛び降りたりもしていたので、完全なインドア派ではなかったけれど、おもな関心はフィクションや物語にありました。

 1人で過ごす時間が長かったんです。保育園のお迎えがいつもいちばん遅くて。友達がみんな帰って1人で待っている間、絵本を読んだりテレビで「仮面ライダー」の再放送を見たりしていて、人よりフィクションに触れる時間が長かった。それを支えにしていたところもあったと思います。結局それはずっと続いていて、摂取するにせよ発信するにせよ、フィクションに支えられて生きている。フィクションあっての人生という意識はすごくありますね。それがなかったら何をしていいのか分からない(笑)

――漫画なども好きでしたか。

 媒体の区別なくいろいろ読んでいたので、漫画も好きでした。オーソドックスですが『ドラえもん』とか、石ノ森章太郎(当時、石森)作品とか。手塚治虫の『鉄腕アトム』や『火の鳥』も読みました。『火の鳥 未来編』は小学2年生くらいの時に親が買ってきたんですが、人類が滅亡する話なので、すごくショックを受けました。もうちょっと与える時期を考えるべきだったんじゃないかな(笑)。奇しくも同じころ祖母が亡くなったので、子ども心に「死とは何か」と考えました。人間は死ぬ、人類もいつか滅びてしまうんだと思い、しばらくは虚無感に襲われていましたね。小学2年生にして人生のはかなさに触れてしまったわけで、この辺は今に繋がっている気がします。

 同じ小学2年のときだったと思いますが、夏休みに親類の家へ遊びに行きました。といっても同世代の子どもがいるわけではなかったので、けっこう退屈なんです。そうしたら「これでも読んだら」といって、何冊か本を渡されました。それが星新一の『ボッコちゃん』とシャーロック・ホームズだったんです。

 まずは星新一さんに魅了されました。星作品に出合ったことで、突如として自分の中で児童書の世界が終わり、大人の小説世界に入ってしまったんです。今にして思うと、もうちょっと遅くてもかまわなかったはずですが(笑)。子どもの本って実は純文学的なところがあって、意外とオチがなかったりするし、ストーリーより言葉のリズムの面白さが重視されていたりする。大人向けの小説は基本、読者を飽きさせないように作ってあるので、その面白さを知ってしまうと、なかなか児童書に戻れなくなりますね。

 星作品の影響はほんとうに大きくて、このとき同時に、人生の舵が小説そのものの方へ切られた気がします。それまでは漫画もテレビも本も区別なく楽しんでいましたが、小説というものが自分の中で明らかに最上の存在となりました

――星さんのショートショートやホームズはどのあたりが好きだったのでしょう。

 星作品はショートショートだけでも1001篇以上ありますから選ぶのが難しいんですが、そう聞かれた時になぜかいつも思い出すのが、『ボッコちゃん』所収の「程度の問題」という話です。あるスパイが外国に潜入するんですが、用心深すぎてかえって挙動不審になり、人目を引くからと更迭される。かわりにのんきな男が後任に選ばれたところ、警戒心がなさすぎて盗聴されても気づかず...というストーリーです。好きな作品は他にもたくさんありますが、どういうわけか、それが浮かんでしまいます。子どもなりに人生の真理みたいなものを感じたのかもしれません。

 星作品とともに手に取ったホームズものは『シャーロック・ホームズの冒険』だったので、最初に読んだのは巻頭の「ボヘミアの醜聞」ということになりますね。ホームズのシリーズからバディもののエッセンスを叩き込まれたと思っています。今回、『エルマーのぼうけん』まで遡るのかもしれないと気づいたわけですが、バディものが好きだと自覚的に感じたのは、やはりホームズとワトソン、ポワロとヘイスティングズといった探偵ものを読んでからですね

――そこから他のミステリ作品も読むようになったのですね。

 はい、星作品とホームズに続いて、ミステリを耽読するようになりました。アガサ・クリスティや、当時小学校の図書室には必ずあったポプラ社の江戸川乱歩シリーズ。ポプラ社のシリーズって、前半は少年探偵団もので、後半は乱歩の推理小説を子ども向けにリライトしたものなんですね。僕は前半には見向きもせず、後半の明智小五郎ものばかり読んでいました。全部読んでしまったので仕方なく前半の少年探偵団ものを読みはじめたら、物足りないんですよね。「子どもがこんなに大活躍できるわけない」と思うし、怪しい人が登場すると「これが二十面相なんでしょう」と思ってしまって、シリーズ後半ほどにはのめり込めなかったです。でもあのシリーズって不思議で、子どもを意識して不倫などはカットしているのに、残虐な描写はけっこう残ってるんですよ。リライトしようのない『パノラマ島奇談』などはそもそも入ってないんですが、たとえば『魔術師』では、生首が波間にぷかぷか浮かぶ場面がそのまま書かれていて、子どもながらに教育上これでいいのか、と思いました(笑)。

 そうやってミステリを読むなかで、小説家になりたいと思うようになりました。10歳の時には宣言していましたね。というのも、小学4年生が終わるころ、将来何になりたいか発表する時間があって、「作家」と言った記憶がはっきりとあるんです。小学2年生くらいまでは漫画の原作者になりたいと言っていたので、3年生から4年生にかけてのどこかで変化が起きたんでしょうね。はっきりしたきっかけがあったわけではなく、小説に読みふけるなかで自然とそうなっていったんだと思います

――小学2年生のころに漫画原作者という仕事があるとわかっていたのですか。

 漫画のトビラに「原作者」って書いてありますから、理解はしていました。自分の絵がそうとう下手なのは子ども心にも分かっていて、漫画家という線はないなと(笑)。ちょうど近所に絵のうまい子がいて、僕が原作、彼が絵を担当して漫画家になろうという話をしていたんです。結局彼は人形劇の美術家、僕は小説家になりましたから、お互いすごく違うところには行ってないですね

――国語の授業は好きでしたか。

 好きでした。理数系が苦手だっただけに、よけい(笑)。あと、作文もけっこう得意でした。ただ、作文って自分のことを書くわけですよね。そうではなくて、僕はやはりお話の方が書きたかった。

 今思い出しましたが、小学4年生のとき、「だ・である」調で作文を書いたら「です・ます」調に直されたことがありました。その先生が好きだったこともあって特に嫌な気はしなかったのですが、ああ、大人が思っている10歳くらいの子どもは「です・ます」調で書くんだ、みたいな妙に醒めたことを実感しました(笑)

――4年生のころから、どういうものを書く作家になりたいと思っていたのでしょう。

 そのころはミステリ作家になりたいと思っていて、自由帳に少年探偵ものを書いたりしていました。ほかにはホームズつながりで、コナン・ドイルの『失われた世界』という、秘境で恐竜に遭遇する話から影響を受けた冒険ものなんかも書いていましたね。
 でも、小学校5年くらいでクリスティの『アクロイド殺害事件』(創元推理文庫版)を読んで、こんなにすごいトリックがあるのかと衝撃を受けて。これを書かれたら、もう自分が付けくわえることはないと痛切に感じました。当時、推理小説はトリックがすべてだと考えていたんです。今なら社会派ミステリなどいろいろあるとわかるんですが。大げさにいうと、進むべき道を見失ってしまった状態ですね。

 そして、そんな時期に、歴史と出合うわけです

歴史との出合い

――ぜひ、歴史や歴史小説との出合いを教えてください。

 小学6年生の時のNHK大河ドラマが橋田壽賀子さん脚本の「おんな太閤記」だったんです。これが本当に面白くて。同級生も結構見ていたので、人気があったんだと思います。ちょうど歴史を習う学年だったこともあって、楽しかったですね。それでだんだん歴史のほうに気持ちが傾いていきました。

 決定的になったきっかけは、小学校から中学校にあがる春休み、書店で立ち読みした横山光輝さんの漫画『三国志』でした。あのころはビニールパックがかかっていなくて、立ち読みできたんですよね。もともと横山作品は『バビル2世』などのSFも好きで読んでいましたが、春休みで時間があったから軽い気持ちでパラパラめくりはじめたら面白くて。14巻くらいまで一気に読んで、「これは買おう」と決めました。そこから決定的に気持ちが歴史へ惹きつけられましたね。

 ちなみに、その半年後、NHKで「人形劇 三国志」が始まったんです。僕がファンになったころは、まわりの誰も諸葛孔明なんて知らなかったのに、あれよあれよという間にメジャーになって。テレビの影響は大きいなと驚きました。横山三国志はその前から人気があったはずですが、一般に浸透したのは人形劇の功績がすごく大きいと思います

――横山さんの『三国志』って相当な巻数だから買うのも大変ですよね。

 中学生ですからそんなにお小遣いもないので、月に数冊ずつ買っていきました。今でも憶えていますが、第31巻が新刊で出る時に追いついたんですね。当時読んでいたのは全60巻のバージョンですから、ちょうど半分のところです。

 横山さんは出身も同じ神戸なので親近感がありますし、何を描いても水準を超えるすごい漫画家です。もっと評価されていいと思います。あとで出てくる荒木飛呂彦さんも、横山さんを高く評価しておられますよ

――砂原さんはおいくつまで神戸にいらしたのですか。

 大学に入るまでですね。神戸にいたころは徒歩圏に大きな書店が4軒あって、入り浸っていました。逆に図書館は遠かったので、図書館よりも書店になじみがあります。映画館もたくさんあって、連れていってもらったり、ある年齢からはお年玉を貯めて自分でチケットを買ったりしていました。そういう文化的なものがすぐ近くにある環境だったのは大きかったと思っています。神戸で暮らしていなかったら、僕は作家になっていないという、確信に近いものがあります。

 たとえば、書店をうろうろして文庫の背表紙を眺めているだけで、いろんな作家の名前を覚えるんですよね。読んでなくても夏目漱石や森鷗外、ヘミングウェイやヘルマン・ヘッセといった名前がなんとなくインプットされていく。知らないうちに文学地図が出来上がっていくわけです。

 あと、これは子どもならではの思い込みなんですが、当時、新潮文庫の古典ラインナップがとくに充実していたので、そこに入っているかどうかが評価の基準になってしまった。つまり、新潮文庫に入っている作家がAランクだという。あのころすでに品切れだったプルーストなどは、僕のなかで長らくBランクになっていました、本当にすみません(笑)

――さきほど「おんな太閤記」のお話がありましたが、小さいころから大河ドラマはよくご覧になっていたのですか。

 昭和の家ってテレビがつけっぱなしなんですよね。初めて見たのは昭和53年の「黄金の日日」で、主演は市川染五郎さん、今の松本白鸚さんでした。川谷拓三さんがさらし首になる場面や根津甚八さんが釜茹でになる場面はよく憶えています。自分の意志で通して見たのは、その次の「草燃える」ですね。今年の大河ドラマと同じ時代の話で、石坂浩二さんが源頼朝、岩下志麻さんが北条政子。北条義時は松平健さんで、なんて格好いい人だろうと思いました。これを1年間通して見て、大河ドラマって面白いなと感じたという前段階があった上での「おんな太閤記」でした

――他の時代劇ドラマも見ましたか。

 中学生のころ、社会科研究会という暇な部活に入っていたんです。土曜日しか活動しないので、平日は午後3時くらいに家に帰って時代劇の再放送を見ていました。

 よく見ていたのは里見浩太朗さん主演の「長七郎天下ご免!」。里見さん演じる松平長七郎は、将軍家光の弟・駿河大納言の忘れ形見で、普段は市井で浪人として暮らしているけれど、最後は葵の御紋を見せて悪を斬る。里見さんの芸には得も言われぬ気品があって、僕はこれで大ファンになりました。僕の本名は「浩太郎」なんですが、名前が似ているという親近感もあったと思います。デビューする際に画数を見たら「朗」のほうがよかったので、そこだけ替えてペンネームにしました。奇しくも完全に里見さんと同じ名前になりましたね。

 ちなみに「長七郎天下ご免!」はテレビ朝日系でしたが、その後、日本テレビ系で同じ里見さん主演の「長七郎江戸日記」というシリーズが始まったんです。長七郎の身の上は前作と同じなんですが、時代設定が何十年か後になっていて、この整合性はいいのかと思っていました(笑)。でも「長七郎江戸日記」は哀愁漂うトーンが基調にあって、すごくいいんですよ。僕の里見さんベストはこの作品ですね。

 里見さんはそれからもずっと好きで、舞台もよく見に行きました。実はサインをいただいたこともあるんです。18、9の時に太秦の映画村でサイン会に行って握手してもらい、一緒に写真も撮ってもらいました。この先、拙作が映像化されることがあったら、ワンシーンでもいいから出演していただけないかなあと思っています

――『三国志』以降の読書はいかがだったのでしょう。

 まず、吉川英治ですね。『宮本武蔵』から入って『新・平家物語』『私本太平記』...。『三国志』も読みましたが、もう横山さんの漫画で話を知っているのでそこまでのめり込まなかったですね、本当はこっちが先なのに(笑)。そもそも横山三国志って吉川三国志が原作だとは謳っていませんが、吉川さんのオリジナルまで漫画化しているんですよ。初期のヒロインである芙蓉姫は、吉川さんが作ったキャラクターなのに漫画にも登場している。当時は著作権も生きていたはずなのに、大らかな時代だなあと思います。

 吉川作品でいちばん好きなのは『新・平家物語』。今は講談社から文庫版が出ていますが、あれは「週刊朝日」に連載されたものなので、最初は朝日新聞社から刊行されていたんです。親の読んでいた本が家にあったので、その版で読みました。函入りで、旧字旧かなだったんですが、わからない字があっても文脈を追っていくうち読めるようになるんですよね。「實」ってなんだろうと思っていたのが、読んでいくうちに「実」なんだと気が付いたり。旧字旧かなは、なんとなく程度ですが、あれで覚えました

――読むのは速いほうですか。

 むかしは速いほうだったと思います。でも、精読が過ぎてどんどん遅くなり、今はほとんど読めない状態に近い(笑)。読んでいる文章がリズム的に入ってこないと、いつまでもそこで止まったりしてしまうんですよね。余談ですが、藤沢周平先生も同じようなことをエッセイに書いておられます。資料的なものは情報として読むからいいんですけど、文学作品として味わおうとすると、どんどん遅くなりますね。中学生のころは速かったから、たくさん読めました。小説以外にも、新人物往来社から出ていた雑誌「歴史読本」を毎月買っていて、グラビアのキャプションから編集後記まで全部読んでいました。読者のお便り欄に目を通していると、よく「大河ドラマの〇〇をダビングしてください」というのがあって、「こういう作品が人気なのか」と思ったりして。一度、「僕もそれがほしいです」と連絡したこともありましたね。

 「歴史読本」では、歴史の全体像に触れました。今でも古代史と幕末以降は苦手なんですが、それでもこの雑誌で邪馬台国は九州にあったか畿内かという論争があるらしい、と知ったり。教科書には出てこないような合戦の顛末とか、中国史に出てくる妖婦や悪女などの話も面白かったですね

藤沢周平との出合い

――吉川英治氏のほかにハマったのは

 吉川英治と前後して、ついに藤沢周平に出合うわけです。きっかけは、中学1年生の時にNHKの水曜時代劇で放送された、中井貴一さんの初主演作「立花登 青春手控え」。囚人たちを診る獄医の立花登を演じるのが中井さんでした。牢獄が舞台なので人生の暗部や社会の矛盾に触れたりして、そのなかで立花が徐々に人間として成長していくという、一話完結の時代劇です。チャンバラとは違う深みがあって、すごく感銘を受けました。そこで原作に興味を持って、講談社文庫から出ていた『獄医立花登手控え』シリーズを読み始めたのが、藤沢作品との出合いです。

 そのころ、うちは「週刊朝日」を購読していたんですが、ちょうど藤沢先生の連載が始まったんです。それがいま文春文庫に入っている『風の果て』で、ファンになったところだったので飛びつくように読み始めました。身分の軽い武士が婿入りを経てだんだん偉くなり、最後は筆頭家老にまで登り詰める物語なんですが、本になってからじっくり読みたいと思うようになって、途中で連載を追うのはやめました。待ちわびてようやく単行本が出たのは中学3年の1月。高校受験の直前なんですけど(笑)、発売日に買いに行きました。急いで読むのがもったいなくて、1日20ページずつくらい、上下巻を1か月ほどかけてじっくりじっくり読みました。素晴らしかったですね。まず、全編に漂っている喪失感のようなものがいい。主人公は出世していく過程で、かつての友人などいろいろなものを失くしていく。それでも前に進んでいかなければならないということを、ことさら力こぶを入れるわけでもなく、「当然そういうものでしょう」という感じで書いていて。藤沢先生に私淑と言えるまでの思いを持つようになったのは、この作品からです。

 おもに家庭的なことからくる孤独感や寂寥感を抱いている少年だったので、自分がかかえているものと藤沢作品の筆致がぴったり合ったんでしょうね。人生は基本的に苦いものであり、何かを失っていくのが当たり前、という感覚はそのころからあった気がします。自分がいまだに能天気な話が書けないのは、その辺から来るのかもしれません

――中学時代、ご自身で時代小説は書きましたか。

 見よう見まねで捕物帖みたいなものも書いていましたが、自分が手がける題材としては歴史の方を向いていました。人生の初投稿は中学2年生。当時は新人物往来社主催の歴史文学賞という新人賞があったんですね。そこに正史『三国志』を書いた陳寿の物語を50枚くらいの短篇にして送りました。でも、ストーリーは考えられても、小説という形に仕上げる筋肉みたいなものがまだなくて、既定の50枚にするためどうにかこうにかいろんな話をつけ足しました。これは無理だろうと思ったら、やっぱり駄目でしたね(笑)。

 陳寿の父親は馬謖の部下で、彼が街亭の戦いに敗れて孔明の命で斬られた時に連座して罪を負っているんです。陳寿は正史で孔明を批判しているところがあるんですけれど、それは父親のことで恨んでいたからじゃないかという説があります。僕の作品ではそうではなく、最初はたしかに恨んでいたんだけれど、だんだん孔明のことを調べていくにつれて恨みが氷解し、すごい人だと思うようになった。でも歴史家として言うべきことは言うというスタンスで批判した、という話なんです。ストーリーは結構いいでしょう?(笑) いずれ、もう一度書いてみたいですね

――中高時代、歴史小説や時代小説以外で好きだったものは。

 「週刊少年ジャンプ」とか。荒木飛呂彦さんの大ファンでした。いまも好きですね。友達の家に遊びに行ったとき、『ジョジョの奇妙な冒険』の第一部を読んで、「なんだ、この斬新な漫画は」とのめりこみ、毎週買うようになりました。ここでもやはり、漫画はもちろんお便りコーナーの「ジャンプ放送局」から、もくじページの漫画家コメントや編集後記まで全部読んでいたという(笑)。

 中学高校という咀嚼力のある時期に「歴史読本」も「週刊少年ジャンプ」もごたまぜに、しかも全部読んでいたのはよかったと思います。自分が進んで手を伸ばす以外のものも載っているというのが雑誌の良さですから。ジャンプは結局そこから16年間、1号も欠かさず購読していましたが、そこまで読んでいると、面白いことに連載の初回を読むだけで当たる作品、当たらない作品がわかるようになってくるんです。『ONE PIECE』も『NARUTO-ナルト-』も『ROOKIES』も「あっ、これ絶対当たる」と思って何度も読みました。編集者時代、そんなことを集英社の人に話したら、「僕が紹介するから、ジャンプ編集部に入ったら?」と本気で言われましたね(笑)。

 ほかの漫画家だと、みなもと太郎さん。『風雲児たち』などが好きでした。横山光輝さんは『三国志』以外にもいろいろ読んでいました。『項羽と劉邦』とか、講談社から書き下ろしで出ていた『徳川家康』とか、他にもSFものとか。手塚治虫や藤子不二雄作品もかなり読み込んでいましたね。

 あとは杉浦茂さん。ここまで挙げた方にくらべるとややマイナーかもしれませんが、僕が生まれるずっと前から『猿飛佐助』などの児童漫画を描いていた方で、叔父が子どものころ好きだったので教えてくれたんです。今でも作品集を持っています。

 こうして振りかえってみると、よく知られた作家が多いですよね。ある程度のメジャー性みたいなものを備えた作品が好きなのかもしれません

好きな映像作品

――作品の情報は書店で得ることが多かったですか。

 そうですね。あとは映像化の影響も大きいです。さきほどの『獄医立花登手控え』がそうですし、吉川英治の『宮本武蔵』も、NHKの「新大型時代劇」枠で放送されました。役所広司さんが武蔵役でしたが、このドラマが素晴らしかった。というのも、僕が原作を読んで不満に思っていたところが全部解消されていたから。僭越ながら、脚本家(杉山義法)と僕のセンスが合っていたんでしょうね。

 原作の『宮本武蔵』は人気が出て連載が長くなったせいで、明らかに要らないエピソードがあるんです。九度山の真田一党が出てくるくだりなんて、「ここ要らないんじゃない?」と思っていたら、ドラマでもバッサリ切られていました。一方、武蔵が鎖鎌使いの宍戸梅軒と立ち会うとき、その前に、梅軒の奥さんにちょっと世話になっているんですよ。それなのに、原作だと躊躇なく梅軒を斬っていて、「ええっ」と思ったんですが、ドラマの武蔵は躊躇します。「もちろん、そうだよな」と共感しました。他にもいろいろあって、挙げだすと切りがないですが(笑)。最初のほうで武蔵に負けて片腕を失った吉岡清十郎は、原作だともう出てこないんですけれど、ドラマでは最後に漂泊の僧となって現れ、すっかり解脱した姿で、巌流島に行く武蔵を激励するんですよね。ところが内心では、まだ武芸者としての未練が残っているという苦悩まで滲ませて、これも良かった。「もし自分だったらこうする」という僕の願望を全部叶えてくれた脚本でした

――映画もお好きでしたか。

 大好きでした。近所にたくさん映画館があったので、小さいころは子ども向けアニメ映画などからはじまり、「スター・ウォーズ」はシリーズ第一作の封切時から観ています。やはり大人向けの映画を観始めるのも早かったですね。ダスティン・ホフマンとメリル・ストリープ主演の「クレイマー、クレイマー」(80年公開)とか。

 当時一世を風靡した松本零士さんのアニメも好きでした。「宇宙戦艦ヤマト」などたくさんありますが、なかでも好きだったのは「銀河鉄道999」の劇場版ですね。いまだに「いちばん好きな映画は?」と訊かれると、この作品を挙げています。ちょうど作り手目線を持ち始めた小学4年生のときに公開されたんですが、原作もテレビアニメ版も知っている身としては、「毎回いろんな星に行く話をどうやって2時間にまとめるんだ」と危惧を抱いていたんです。そうしたらエピソードの取捨選択が完璧でした。「ここは要るよね」という部分はちゃんと残していて、「ここはこう取ってこう繋げるのか」と感嘆するところがたくさんあって、ただただ「すごい!」と思いました。しかも感動のラストで。ロングランになったので、5、6回は観に行きましたね。

 当然それ以上に素晴らしい映画もいっぱいあるんですけれど、10歳の魂に響いた感動って計り知れないから、いまだに「いちばん好きな映画は『銀河鉄道999』」って言っています。

 ちなみに、ベスト2も不動で、中学2年生の時に観た「アマデウス」です。やはりこれも、自分が作られきっていない時に観たということが大きいですね。豊かな娯楽性があるけれど人生の理不尽さも描かれていて、「こういう作品が作りたい」とつよく思いました。面白さと人生の奥行きを兼ね備えたものが理想だというのは、このころから変わってないですね

――時代劇映画はどうでしたか。

 当時かなり減っていましたが、89年に「将軍家光の乱心 激突」というアクション時代劇が久々に作られました。降旗康男監督、緒形拳主演で、京本政樹演じる家光がなぜか常軌を逸して自分の息子を殺そうとするのを阻止する話。なぜ突然あの映画が作られたのかわかりませんが、とにかく面白かったです。その後しばらく東映が毎年時代劇を作ってくれたので、全部観に行ってましたね。好きだったのは、「江戸城大乱」とか「動天」とか

――さて、大学進学で東京にいらしてからは。

 早稲田に入って思い切り本を読もうと目論んでいたんですが、足を運べる映画館の数がぐんと増えたので、結果的に学生時代はむしろ映画の方に傾斜してました。年に100本ぐらいは観ていましたね。といいつつ、これはストイックな数え方で(笑)、2本立ては1本とカウントし、ビデオで観たものは入れていないので、劇場に足を運んだ回数が100回ということです。

 新作映画も精力的に観ていましたが、とくに面白いと思ったのは1940~50年代、ハリウッド黄金時代の作品です。上京する1年くらい前からハリウッド・クラシックスという企画が始まって、神戸でも観ていました。「ローマの休日」から始まって「雨に唄えば」など、一般教養とでもいうべき名作をスクリーンで上映してくれるわけです。東京では銀座文化がクラシック専門館だったので、そこに入り浸っていました。今のシネスイッチ銀座ですね。あそこは当時、上が銀座文化、下がシネスイッチ銀座だったんです。オードリー・ヘップバーンの映画はとくに人気だから「昼下りの情事」「麗しのサブリナ」「マイ・フェア・レディ」などさかんに上映していて、ほかの作品も粒ぞろいでした。

 あのころ浴びるように映画を観たことも役に立っていますね。特に、さりげないユーモアをまぶした会話なんかはハリウッド映画の影響があると思います。『高瀬庄左衛門御留書』で、怪我をした立花弦之助が庄左衛門に止血された時、嬉しそうに「父というは、こうしたものかなと思いまして」と言ったら、庄左衛門が無言になる。なにか気に障ったのかと心配すると、庄左衛門が「そこもとは、身どもなど及びもつかぬほど博識でおわすが」「照れくさい、ということばはご存じないようですな」と応える...みたいなところは、おそらくハリウッドの会話から吸収したものです。『黛家の兄弟』でも最後のほう、主人公の人間的な成長を指して、しみじみ「大きくなられて」というのへ、「――丈(たけ)はあのころから変わっていないはずだが」と返す会話。愁嘆場がちょっとだけユーモアで相対化されるのも、洋画から取り入れたものですね。自分が見たり聞いたり経験したりしたものが全部血肉になっているわけです

古典を読み進める

――大学時代の読書はいかがでしたか。

 この時期に古典を読まないといけないという意識が芽生えて、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、夏目漱石などを意識して読み始めました。

 とくに感動したのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』とバルザックの『ゴリオ爺さん』ですね。『罪と罰』はそれほど響かなかったんですが、『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの集大成的作品で、すごいものを読んだと思いました。あれは全世界の人に読んでほしい。

 『ゴリオ爺さん』はそういう言葉こそ使っていないけれど、人生の不条理を描いた作品ですね。副主人公格のヴォートランという悪党がいるんですけれど、途中でいなくなってしまう。こんなに存在感のある人が消えちゃうってどういうことか、普通だったらできそこないの小説だと思うんだけど、その時は現実ってこういうものだよと作者が言っている気がしたんです。現実には、こうやって突然誰かが消えたり、伏線が回収されないままだったりしますよね。ゴリオ爺さんが死んだあと、彼の近くにいたラスティニャックという青年が、最後にパリの町を見ながら、「今度は、おれとお前の勝負だ」と口にするのもよかった。死んでいく老人がいて、この先も生きていく青年がいて、そこにも人生の一断面みたいなものを感じました。『ゴリオ爺さん』を薦めてくれたのは僕の恩師ですが、本当に感謝しています

――恩師、というのは。

 僕が在籍していたのは早稲田の文芸専修(当時)というところだったんですが、専任の先生はいなくて、いろいろなところから先生が集まって教えておられたんです。その恩師は仏文の先生で、僕は1年の時、たまたまその先生のフランス語の授業を受けていました。2年生でその先生が指導する小説講読のゼミに入り、4年生の時は卒論の教官もお願いしました。

 3年生の時は直接の指導がなかったんですが、実際に小説を書くゼミを取っていて、書きあげたらその先生にも見てもらっていたんです。1作目の時は「よく書けてるね」と言ってくださったんですが、2作目で武家ものを書いた時、授業での評価は良かったのに、先生には「これでは藤沢周平の若書きだよ!」と叱られました。つまり、小器用な真似になっているということですね。このこともあって、その後、長く時代ものには手をつけなかったのかもしれません。

 その先生とは、今でも手紙のやりとりをしています。本が出るたびにお送りするんですが、なかなか厳しくて(笑)。『黛家の兄弟』の時も、疑問点みたいなものがいくつか挙げられてきましたが、それとは別に、「山本周五郎賞受賞おめでとう」というお手紙もいただきました

――卒業後は出版社に就職したのですか。

 中央公論社(現・新社)に入って編集の仕事に就きました。いきなり小説家になれるとは思っていないし、とにかく社会人になりたかったんです。どうせなら好きな小説に携わる仕事がしたいなと思い、出版社を受けました。
 担当作家の本をたくさん読まないといけなかったんですが、かたわら、年に最低1作品は古典を読むことにしていました。そのころ読んだのが、ヘッセの『知と愛』やドストエフスキーの『白痴』です。

 ヘッセは叙情的な感じが自分に合うんですが、特に『知と愛』が好きです。ナルチスという修道士と、ゴルトムントという諸国放浪しながら恋愛遍歴を重ねる芸術家という、対照的な2人の物語ですね。今思うと、これも大きな意味でバディものといえるかもしれません。

 『白痴』はドストエフスキーの中で、『カラマーゾフの兄弟』の次に好きな作品です。これはバディものとまでは言わないけれど、ムイシュキンとロゴージンという、青年2人の対決のドラマでもあります。やはり、自分は一貫して人と人との関係性の中で動くドラマが好きなんだと思います

――会社では小説の編集者だったのですか。どんな方をご担当されたのかなと。

 まずは森村誠一、斎藤栄、永井路子、菊地秀行といったビッグネームの先生方。他には『秘密』で本格的にブレイクする前の東野圭吾さんも。とくに歴史小説、時代小説では自分のアプローチでおつきあいが始まった方も多いです。東郷隆さん、宮本昌孝さん、高橋直樹さん、安部龍太郎さん、中村彰彦さん...。結局原稿はいただけなかった人もいますが(笑)。

 7年間勤めたんですけれど、いずれ必ず小説家になるんだとは思っていました。そうすると、編集の仕事は楽しいんですけど、小説を書くのとは違う感性を使うものですから、だんだん「ずっとこれをやっていると書けなくなるんじゃないか」と思い始めたんです。いちばんそう感じたのは、新人さんの書き下ろし長篇を担当していて、ふんだんにアイディアを出しちゃった時ですね。「このアイディア、自分のために使ったほうがいいんじゃないか」と思ったのが、かなり直接的な退社のきっかけです

フリーランスになってから

――編集者時代、ご自身では小説は書いていなかったのですか。

 出版社にいる間はあくまでも仕事中心で、精一杯やろうと思っていました。手を抜かず編集の仕事をやっていると余力が残らないので、小説は細々と書いているくらいでしたね。

 僕は20代のころから、自分は40代でデビューするって宣言していたんです。藤沢先生がそうだったので、作家は40代でデビューするもの、という思いこみがあって。ただ30歳で会社を辞めたときには、なれるものなら早くなりたいという気もちもありました。でもやっぱり、結果的に40代でデビューすることになります。30代でデビューすると宣言していたら、そうなっていたかもしれない。言霊って怖いですね(笑)。

 フリーランスになってじっくり作家の道を目指すつもりが、逆に忙しくなったんです。フリーって仕事を断れないんですよね。出版界ってよくも悪くも小さなコミュニティだから、一度関係性が出来上がると、どんどん仕事が来る。自分は何をやっているんだろうと思いながら、家族もいたので仕事を減らす踏ん切りもつかず、悩みながら15年を過ごしました。藤沢先生は44歳になる年、満でいうと43歳でデビューされているので、その年齢を超えた時の絶望は深かったですね

――フリーランスになって、どんな仕事をされていたのですか。

 最初のうちは編集、ライター、校閲...とやっていましたが、ある時期から校閲に特化しました。なぜかというと、校閲は取り組むべきゲラや原稿が常に何かしらあるので、食いっぱぐれがないんですね。フリーの編集やライターだとまず企画ありきだから、いつも仕事があるというわけではない。編集者の単なる個人的好みに沿って文章を直されることがあって、ライターが嫌になったというのもあります

――時代小説や歴史小説の校閲もされたのですか。

 それもやりましたが、じつは小説より役立ったのが、新書などを校閲する際の調べものですね。こういうテーマの時はこの本に当たればいいんだ、と学べたのは大きかった。あとは、自費出版の原稿を直した経験も大きいですね。プロの文章って、さすがにそれほど直しは要らないんですが、自費出版の原稿はそうもいかない。なにがよくないのかとか、こうすればいいのにと考えながらエンピツを入れていくと、だんだん見えてくるものがあるんです。ひとつわかりやすい例を挙げると、「の」が続く文章。「丘の上の家の窓の桟」なんていうのは格好悪いな、などと肌に沁みてわかってくるという貴重な経験でした

――フリーランス時代、新人賞の投稿はどれくらいしていたのですか。

 力を振り絞って何年かに1回は投稿していました。2010年ごろに投稿したのが渾身の一作だったんですが、それは阪神大震災のことを書いた、なかば私小説的なものでした。でも新人賞に送ったら1次通過止まりで、あれが駄目ならどうしたらいいんだろうとなって。

 なぜそういうものを書いたかというと、ロールモデルとして井上靖や辻邦生が頭にあったんです。純文学方向からスタートして、そこから文芸の香りがする歴史小説を書いていくといいんじゃないか、と考えました。

 その作品は今でもそんなに悪くなかったと思っているんですが、それが駄目だっただけに絶望感も深くて、そこから5年間くらいは何も書けなくなりました。それがいちばんきつい時期でしたね。

――その間、本は読めたのですか。

 少しずつ。そのころは川端康成やトルストイを読んでいました。川端の『山の音』を読んだのもこの時期ですが、あれが『高瀬庄左衛門御留書』のヒントになりました。『山の音』は舅と嫁の話ですが、2人の間に微妙なあやうさがあって、この2人がもうちょっと近づいたらどうなるんだろうと思って。

 川端はこの時期にかなり読みましたね。最初に読んだのはもう少し前、『雪国』でしたが、僕はあの作品こそ、日本の散文の極致だと思っています。これは戦前の作品ですが、川端は戦後になると突然文章が読みやすくなるんですよね。『山の音』も戦後に書かれたものですらすら読めちゃうんですけれど、でも言うに言われぬ詩情のようなものが漂っています

――5年間書けずにいた時期からどのように抜け出したのですか。

 このまま死ぬのかなと自分に問うた時、やっぱりそれは嫌だと思い、でも忙しいのは変わらないからどうやったら書けるか考えました。今まで何回もこのままじゃ駄目だと思ったけれど忙しさに飲み込まれていたので、決意だけじゃ足りない。そこで書かざるをえないシステムを導入しようと考え、カルチャーセンターの小説講座へ行くことにしました。

 その講座は半年単位で、最初に10枚のショートショート、期の終わりに60枚の短篇を書きあげるのが課題でした。そういう強制力を使って書こうとしたわけですね。リハビリのつもりで取り組んだ最初の10枚が自分でもびっくりするほどうまく書けたし、何より楽しかった。「あ、書けるんだ」と思って息を吹き返し、じゃあ60枚書こうとした時、さらにモチベーションを上げるため、その作品で同時に新人賞へ応募しようと決めました。「決戦!小説大賞」は書店で見かけて面白い企画が始まったなとは思っていたんですが、その第2回の公募締切が近いと知って。ここで書けなかったら俺は終わる、とにかくやろうと決めて書いたのが、前田利家とその家臣を描いた「いのちがけ」で、幸いにもこの作品で受賞し、デビューしました。いろいろあったけど、結局は歴史に帰ってきたなと思いましたね

歴史小説も時代小説も

――その短篇を発展させた『いのちがけ 加賀百万石の礎』は歴史小説ですが、その後、時代小説を書き始めたのは編集者の勧めがあったからだそうですね。

 「文章の雰囲気や感情の掘り下げ方が時代小説に向いていると思うから、書いてみてください」と言われました。デビューしたてなので、「書いてください」と言われたら書かざるをえないわけです(笑)。時代小説はたくさん読んできたので、「てにをは」はわかっているから、書ける書けないでいえば書ける。それで、先ほど言った『山の音』を読んで感じたことをヒントに、読み切り短篇のつもりで書いたのが『高瀬庄左衛門御留書』の第一章にあたる「おくれ毛」でした。そうしたら「良かったから、続きを書いてみて」と言われました。続きはまったく考えていなかったのですが、『ゴリオ爺さん』を読んだとき感じたように、作品はここで終わるけれど作中人物の人生は続いていくという感覚が自分の中に沁み込んでいるので、これまた書けないことはない。僕の作品はつねに続きがありそうな雰囲気で終わっていますが、続篇を狙っているわけではなく(笑)、基本的にそういう感覚があるからなんです。作中、おなじ時間軸のなかでも書かれていない話があるはずだという意識も持っています。

 そこで構想を練り直し、新たに立花弦之助や半次といったキャラクター、藩の抗争などを盛り込んで、いまの形になりました

――『高瀬庄左衛門御留書』も『黛家の兄弟』も、架空の神山藩が舞台ですよね。帯にも「神山藩シリーズ」とあります。

 一度作った舞台ですから、わざわざ別の藩を作る必要もないくらいのつもりだったのですが、いつのまにかシリーズということになっていました(笑)。神山藩にはモデルにしている藩があって、作中にヒントも出しているので、わかる人にはわかると思います

――執筆の際、史実がベースかどうかとは別に、歴史小説と時代小説で実感する違いはありますか。

 じつは、ものすごい違いはないと思っています。ただ、ベクトルの向きはやはり異なっていて、時代小説のほうが、より個人の人生や生活を追うものだという気がします。ですから食事をする場面や子どもが熱を出したなどといったことを、ストーリーを邪魔しない程度に随時入れていく。歴史小説でもそれは盛り込んでいるつもりですが、時代小説のほうがより比重が大きいかなとは思います。

――『黛家の兄弟』では、『山の音』のようにヒントになった先行作品はありますか。

 『カラマーゾフの兄弟』は少し念頭にありましたが、同じことをやろうとしたわけではありません。もともと群像劇が好きなんです。個性の違う三兄弟がそれぞれの道を歩んで大きく物語が動いていく、みたいなものが好みなんですね

――そんな『黛家の兄弟』で山本周五郎賞を受賞されて。

 受賞会見でも話したんですけれど、山本周五郎という大先達の名を冠した賞をいただけたことは、時代小説を書いている僕にとってすごく大きな意味があったと思っています。もともと藤沢周平に私淑していて、そういう看板をいただいている上に、山本周五郎の名前まで掲げることになったという。それだけ責任もあるので下手なものは書けないですね。新たに自分を奮い立たせているところです。

――今、1日のルーティンは。

 10時~19時くらいの感じで机に向かっています。もちろん休みなく書いているわけではなく、考えあぐねている時間も含めてですが(笑)。夜はさすがにぐったりしているので、資料を読んだり、手紙を書いたりしていることが多いですね

――やはり最近は読書というと資料読みが多いですか。

 そうですね。でもいまだに、少しずつでも古典を読んでいかないと、とは思っていて。ちなみに、今読んでいるのは『野菊の墓』です。たまたま電車に乗るとき本を持っていないことに気づいて、薄い文庫本を探して買いました(笑)。

 最近びっくりしたのは、2020年のはじめにカミュの『ペスト』を読んだら、その後、世の中があんなことになって、急にこの本がベストセラーになりましたよね。あれには驚きました。あまり世の中の流行と関わりなく生きていますが、『三国志』と『ペスト』の時、この2回だけ、時代とシンクロした気がしています

――今後はどのような作品を書くご予定でしょうか。

 神山藩を舞台にしたものはおそらく、ことさらシリーズと銘打たなくてもずっと書きつづけていくと思います。時代小説の方で注目していただきましたが、ありがたいことに歴史小説のオファーも途切れず来ているので、こちらも続けていきたいですね。足利尊氏と直義の兄弟対決である観応の擾乱を、尊氏の庶子・直冬の視点から描こうと思っていて、その準備をしています

――砂原さんはどの時代でも書けそうですね。

 いや、最大がんばって平安時代からペリーが来るまでかな(笑)。先ほども言いましたが、古代史と幕末以降はちょっと苦手で。ああ、でも学生のころは中国歴史小説が書きたいと思っていて、卒論も小説を提出したんですが、そういう内容だったんです。折しも宮城谷昌光さんが現れて、あれもこれも書いてしまわれたので、方向修正を余儀なくされた(笑)。でも、いずれ形にしたいと思っています。

 実は会社を辞めたときは、ローマ史を書くつもりだったんですよ

――ああ、すっかり聞きそびれていましたが、砂原さんは塩野七生さんの『ローマ人の物語』もお好きだそうですね。

 そうです、とくに初代皇帝アウグストゥスに惹かれました。ローマ史に傾倒して、イタリアにも行きましたし、原書で勉強もしましたね。でも、ラテン語が難しすぎて身に付かず(笑)。塩野さんや佐藤賢一さんといったラテン語を読みこなしている方々がいらっしゃるので、少なくともローマ史専門の作家ですという看板は掲げられないなと。ここでも方向修正があったわけです。でもさんざん勉強したので、今はキャリアの終盤で形にしたいと考えています。中国、ローマ、純文学...。いろいろと迷った分が蓄積にもなっているはずなので、これから少しずつ、自分の引き出しを開けていきたいですね

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