縁もゆかりもないけれど、なんとなく気になる駅ってないだろうか? 私はずっと、京浜急行線の梅屋敷駅が心に引っかかっていた。かつて祖父母の家が川崎市の桜本にあったので何度も通り過ぎてはいたけれど、一度も降りたことはなかった。お笑いトリオ・ネプチューンにもコントにされていた梅屋敷には、果たして梅が名物の屋敷はあるのだろうか。
好奇心に駆られて下車してみたが、そこにあったのは「第一京浜」こと国道15号と東邦大学医学部、そして葉々社という本屋だった。梅のお屋敷があった場所は、現在は公園になっているらしい。
屋敷はなくとも本屋があるなら、素通りはできない。改札を左にぷらもーる梅屋敷通りという商店街を歩いて約3分。フォレストグリーンののれんがかかる引き戸をカラカラ開けると、奥に小上がりがある空間に本が並んでいた。広さは10坪ぐらいだろうか。
「本屋を始めるなら、最低10坪ぐらいのスペースでと思っていたんですけれど、ちょうど10坪あったんですよ」
小上がりの左側にあるレジカウンターに佇んでいた、店主の小谷輝之さんがそう言った。
出版社を辞め、50歳で本屋を始める
葉々社がオープンしたのは2022年4月25日。2022年に50歳を迎えた小谷さんは、「50の春に本屋を始めよう」と、2年ほど前から計画を立てていた。それまではずっと、出版社で編集の仕事をしていた。
東大阪市出身で大学まで大阪にいた小谷さんの夢は、新聞記者になること。しかし小谷さんが就職活動をする頃には就職氷河期が始まり、どこも狭き門だった。同年代の私も出版社やラジオ局などを受けるも、ことごとく滑りまくった苦い記憶がある。そんななか小谷さんは、とある出版社から内定をもらう。その会社で9年間、記者やテレビ誌の編集などに携わってきた。週刊誌ゆえに間断なく締め切りがやってくる。気付けば会社の床に雑誌を敷いて、仮眠を取るようになっていたそうだ。
自分の話になってしまうが、小谷さんが在籍していた時期に、私もその会社でライターをしていたことがある。違う雑誌ではあったものの、朝4時に作業が終わるなんて日も多々あったから、小谷さんの激務は想像に難くない。しかし辞めた理由は、家に帰れなかったからではないと語った。
「続けていくうちに、すぐに新しい号が出る雑誌ではなく、長く手元に置いてもらえるものを作りたい。書籍の編集をやりたいと思うようになったんです」
本の作り手と売り手が一緒になれる場所を目指して
2005年4月に退社し、1カ月ほどベトナムとカンボジアを旅行してから転職活動を始めたものの、書籍編集の経験がないことから最初は苦戦した。しかしインプレスの「デジタルカメラマガジン」編集部に採用され、雑誌&書籍編集者として再スタートを切ることができた。
「月刊誌を作るかたわら年に3~5冊の書籍を編集部で作っていたのですが、カメラをテーマにしたものなら色々なアプローチの本が作れたんです。それだけではなく、カバーの紙は何にしようか、帯の色はどうしようかといった試行錯誤にも寛容で」
店の棚には、編集者時代に小谷さんが手掛けた本も並んでいた。いかにも実用書といったものから、海外文学を彷彿させるカバーをまとったものもあり、フリーダムな書籍編集をしてきたことがよくわかった。
「でも45歳ぐらいの頃に、やりつくしたと感じるようになってしまって。書籍の企画を考える時って、まず類書を探しますよね。マーケットが広ければ広いほど、そのジャンルは売れ筋だからですが、同じような本ばかりだと、果たして読者はどう思うのかなと」
そんなことを考えていた折、シンガポールのグループ会社に異動になった。現地でコンテンツ制作やカタログ制作に始まり、営業までこなしていたが、紙の本への思いは募るばかり。売れるものではなく、好きなものをじっくり時間をかけて作りたい。2年間の駐在を経て小谷さんは帰国後、別の出版社への転職も考えた。
しかし誰かのもとで本を作ろうとすると、「通りやすい企画」を意識してしまうこともわかっていた。一人出版社の立ち上げなど色々考えた末に、本屋を始めようと思うようになった。編集者仲間だった妻もこの頃には会社を辞めていたので、実家の両親に「本屋をやりたい」と言ったところ、父親は「奥さんが納得しているなら」と背中を押したものの、母親は烈火のごとく怒ったそうだ。
「母には『 ええ会社なのになんで辞めるねん! あんたに何の才能があるんや!』とまで言われました(苦笑)。安定した生活を手放すことが不安だったのでしょう。でも編集者も辞めるわけではなくフリーで続けながら、作り手と売り手が一緒になれる場所を作りたかったんです」
戦争や貧困、ジェンダーをテーマにしたものが充実
家賃が格安なこと、家から自転車で行けること、そして子どもたちが本を読みながら、ゴロゴロできるスペースがあること。この3つをマストに物件探しを始めた。すると2階は元アパート、1階部分には元とんかつ屋とアイスモナカの製造所が隣り合う、空き物件を紹介された。梅屋敷に地縁があったわけではないが、中を見ると小上がりがあって家賃も破格。それにこの街には、本屋がない。
「アイスモナカはかつてあった『福田屋』という老舗甘味処の商品だったのですが、閉店するにあたり、レシピと機械を『仙六屋』というカフェが引き継いだんです。仙六屋は高架下にあるのですが、行ってみると4人いた女性客がみんな本を読んでいて。ここなら大丈夫だと確信しました」
「葉々社」の由来は、小谷さんが編集者時代に青森の奥入瀬で見た、ブナの原生林だという。その鮮やかな緑のグラデーションに触れて、「葉」がつく名前と緑色ののれんを掲げる店にしたいと思ったそうだ。その葉は書皮やしおりにも描かれていて、しおりには「考えるきっかけになる1冊を。」という文字も刻まれている。
現在は新刊が8、古本が2程度の割合になっていて、古本は小上がりスペースにまとめられている。新刊の棚には大手出版社の本と一緒に、本屋・生活綴方やマルジナリア書店などこれまで訪ねた本屋が出版したものや、小谷さんが手掛けた本も並んでいる。
戦争や貧困、ジェンダーをテーマにしたものが厚めになっているのは、まさに「考えるきっかけになる1冊」となる良書が多いから。しかし地域唯一の本屋なこともあり、特定のジャンルばかりというわけではない。
流れるように移動しながら、本を選べるこだわり
ふと、棚を眺めていてあることに気付いた。柱部分が奥まっているので、壁を囲む本を、流れるように横移動しながらチェックすることが出来るのだ。なんと見やすい。これは棚を作る時に小谷さんがこだわったポイントで、店の右側と左側が対称になるようにもしているそうだ。
靴を脱いであがる小上がりには古本以外にも貸し棚やギャラリースペース、今治ハンカチグッズなどの雑貨コーナーもある。どれも小谷さんが自分でいいと思ったものばかりだ。本もすべての内容を把握するのは無理でも、極力自分が胸を張って誰かに勧められるものを置きたいと語った。とくにひとり出版レーベルの本は、意識して扱っていきたいそうだ。
9月16日までギャラリースペースに飾られているのは、事故で後ろ足を損傷した犬「フウ」との12年をまとめた、橋本貴雄さんの『風をこぐ To Row the Wind』の写真。そういえば版元のモ・クシュラも、ひとり出版レーベルだ。
「『風をこぐ』は、いつも店に寄ってくれる3人の方が買ってくれました。わざわざ来てくれる方もいますし常連さんもできつつありますが、もっと街の人に知ってもらいたい。10年は続けようと思っているので、それが目下の課題です。ところで、ライターやってた雑誌の編集部で覚えてる人っていますか?」
「村田さんとか?」
すっと顔が浮かんだ、ある女性の名を挙げた。挨拶程度しか交わしたことがなかったけれど、彼女のことは今も覚えていたからだ。
「それ私の妻ですよ」
梅屋敷には何のゆかりもないと思っていたけれど、自分の過去としっかり紐づいていたとは……。
「そういえばごはんにかけるゆかりって、しそと梅で作るんだっけ。梅だけに、ゆかりがあったわけだ」
脳内で一人大喜利をしながら帰途につく。梅屋敷は、もう見知らぬ街ではなくなっていた。私にとってもここで生まれる現在が過去になり、未来につながっていくといいな。初めて来たのにそんな気持ちになったのは、また来てみたい本屋と出合えたからだと思った。
(文・写真:朴順梨)
小谷さんが選んだ、今を考えるきっかけになる1冊
●『韓国文学の中心にあるもの』斎藤真理子著(イースト・プレス)
他者への理解を深めるため、私の店には距離的にも心理的にも関係が近い韓国と台湾の小説がたくさん並んでいる。韓国の小説は過去の歴史や政治を色濃く反映させたものが数多く存在するが、それらの中心に位置するものはいったい何なのか? これまでさまざまな韓国文学を翻訳してきた斎藤真理子さんがその答えを提示してくれる。彼女が探し当てたキーワードは「戦争」だった。
●『手話を生きる』斉藤道雄著(みすず書房)
長年にわたり、テレビ報道の現場を取材してきた斉藤道雄さんが、音声を介さない手話言語が持つ豊かな表現の世界を読者に伝える。本書の舞台となる明晴学園(めいせいがくえん)は私立のろう学校だ。この学校に通う子どもたちは手話という言語を使って会話を行う。聞こえないことは障がいではなく、少数派なのだと斉藤さんは言う。ろう者と手話の世界を知るためのはじめの1冊としてオススメしたい。
●『私たちはなぜ犬を愛し、豚を食べ、牛を身にまとうのか』メラニー・ジョイ著(青土社)
現在、世界中の大型動物の90%以上が、牛や豚、羊や鶏といった家畜であると言われている。彼ら・彼女らは食肉や卵、牛乳を生産するための道具として、劣悪な環境下で飼育され、命を奪われている。本書は、社会心理学者であるメラニー・ジョイさんがカーニズム(肉食主義)について論じる興味深い1冊だ。動物福祉の観点から本書を眺めたとき、私たち一人ひとりに何ができるのかを考えさせられる。
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