間も無く中国共産党の第20回党大会が開催される。習近平政権の三期目が予想され、毛沢東期の再来とも言われる。今後も、習近平への権力集中、また「国家の安全」を重視した社会への管理統制、そして戦狼(せんろう)外交、双循環や共同富裕などの経済政策も継続されるだろう。台湾への圧力も継続的に強化される。
何が例外なのか
この中国共産党の統治を理解することは容易ではない。先進国の考える民主主義や人権も保障されない中で、人々が監視されているなら、なぜ人々は習近平政権を受け入れるのか。また、社会主義体制の下で経済発展や技術革新が続くのか。一般的な「物差し」では理解が難しい。
どのようにこの中国を理解するのか。まず取り上げたいのは、高橋伸夫『中国共産党の歴史』だ。本書は、成立以来の中国共産党が辿(たど)ってきた道程を、海外に流出した中国共産党史料などを用いて描き出している。その叙述には、ある意味「破壊力」がある。例えば、これまで中国共産党の民主化に一縷(いちる)の望みをかけ、民主主義的な要素を見出(みいだ)してきたセルデンやスメドレーの著作に親しんだ読者なら、実証的に描かれた悲惨な長征の様に驚くだろう。また、毛沢東時代を独裁政治だと見做(みな)している読者も、毛沢東が常に劉少奇やトウ小平、官僚層のさまざまな抵抗に遭いながら苦闘する姿に、歴史観の修正を迫られるだろう。習近平を毛沢東になぞらえる向きもあるが、それが妥当なのか考えさせられる。本書で描かれる複雑な政治過程を通じて、「中国共産党を権威主義の権化」として単純化することの修正を迫られるであろうし、同時に習近平政権の何が党史の中で例外的なのか気づくであろう。
習近平政権の統治の特徴の一つは、デジタル・デバイスを用いた徹底的な社会の管理統制だ。なぜ中国の人々は、「監視される」ことに抵抗しないのか。次に取り上げる梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』は、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』(ハヤカワepi文庫・990円)に基づいて中国の監視社会を捉えることに疑義を呈し、「自由の喪失」とともに、あるいはそれ以上に「利便性や安全性の向上」に目を向ければ、むしろオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(同・880円)の方が近いという。また、実は監視社会は先進国でも形成されつつあることに鑑みれば、中国で生じている問題は「異形」ではなく、むしろ先進国と地続きなものとして捉えるべきだと本書は訴える。だが、習近平政権が、今後も人々が自由を差し出して得られる利便性や安全性、そして監視されているという点では平等な、豊かな生活を提供し続けられるのかが問題だ。やはり経済が重要な鍵になるのだろう。
まずは熟視から
中国理解は確かに難しい。岡本隆司『近代日本の中国観』は、現在ほど中国理解が必要とされている時代はないとした上で、先人たちの中国論を見つめ直す。著者は、日本の中国認識の問題点を「中国の政治・社会を西洋・日本と同一視したうえで、西洋を基準(ものさし)として対比する認識法」にあると喝破し、それが中国侵略に帰結したという。そして、このような「根本的な問題」は戦後にも継続し現在にも至っているとする。引用されている吉川幸次郎の言葉が重い。それは、「日本人は、物事をその儘(まま)の形で見る、ものを熟視するということにはよほど疎(おろそか)なのではないか」というものだ。
民主主義や人権などの価値が焦点となる現在、中国批判は一層強まっていくだろう。だが、まずは中国という対象を対象として理解すること、それが求められているのではないか。物差しを持ち出し測定、評価するにしても、まずは「熟視」から始めたいものである。=朝日新聞2022年10月15日掲載