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棚と大人 津村記久子

 先日、食器用のアクリルたわしや布巾を室外機の上で干すのに最適な、プラスチック製の折りたたみ棚を見つけた。バルコニーは物干し竿(ざお)が置けず、かといって台所のものを浴室に干すのもなあと悩んでいたのでとてもうれしかった。毎日たわしや布巾を天日でカラカラに乾かして喜んでいる。棚は百円だった。

 棚といえば、わたしは引っ越してから本棚を所持しなくなった。本を持ちすぎていると、棚を買っても入りきらないし意味がないと思い始めたからだった。だから、未読だったり大切だけれどもそんなに読み返さない本はまだ段ボール箱の中にしまってある。どの本がどこに入っているのかは、梱包(こんぽう)の前に簡単な目録を作ったのでだいたいわかる。大事なのは、本が並んでいることじゃなくてどこにどの本があるのかがわかることだと考えるようになった。外に出した本や、引っ越してきてから買った本は床に横置きしている。大判の本はあまり持っていないので、壁の隅っこに沿って縦に並べている。

 かつて両親と住んでいた自分の家の応接間には、父親が高価な洋酒を飾っていた立派な棚があった。棚には他に、母親の茶道茶碗(ちゃわん)や、全集と思わしき美術書が並んでいた。二人とも美術に興味はないので不思議に思う。その棚は、わたしにとっては大人が大事にしているものが詰まっているように思えた。

 今自分は、その時の父親や母親の年齢をとうに追い越して、百円の棚を買って喜んだり、本棚を買う気がなかったりする。そしてときどき、棚に高価な洋酒や茶道茶碗を置いて飾ることが大人の振る舞いだと親たちは思っていたんだろうかと考える。今のわたしには浪費に思える。父親は特に浪費家だったので、その血を引く自分がお金を使い過ぎていないかは常に考えている。父親は、相続したアパートを売って収入があったりして、それに沿った振る舞いをしていただけかもしれない。それが本当にやりたかったことか? 尋ねてみたくても父親はもういない。=朝日新聞2022年10月19日掲載