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ロジェ・カイヨワ「石が書く」 未来の誰かにとっての「永遠」のかけら

『石が書く』から「目玉入り瑪瑙(めのう)(ウルグアイ)断片」

 人が観測できる「永遠」とはなんなのだろうと思う。人は「終わらない」ことを見届けることはできないし、宇宙もいつか終わるかもしれない。けれど人の命には限りがあって、だからこそ「永遠」を錯覚することが、人はできるようにも思う。どこまでも途方もなく何かが続いていくような錯覚。それは、たとえば昔の人が自分と同じように何かを見て美しいと思ったり、空想をしたりした、その記録やそのときのこまかな感性の揺らぎを、言葉や絵で知ることができた時。知らない人の「生」をその時ほど感じることはなく、だからこそ私がいなくなっても別の誰かが、自分が想像するようなことを未来のどこかで想像しているような、そんな繰り返しが永遠にあるような感覚にもなるのです。

 石は永遠に存在しているように感じる。決して正しく「永遠」ではないのだけれど、時代を越え、さまざまな人の手を渡り、人の想像力に触れていくその石は、人間の生身の「永遠」そのもののように感じます。著者のカイヨワは過去の人々が石を通じて残してきた想像力を拾い集めていくようにして語る。というより、個人の想像力としてではなく人類の想像力として石に対峙(たいじ)し、その記録を残している。だからこの本を開くと余計に、石が過去の人々の息吹の中で、「存在した」ことを感じられる。事実としてだけでなく、生身の人間の視界に入るものとして、「あったのだ」と感じられる。

 会ったこともない、時代の全く違う人間のことを、残されたその人の「想像」に触れることで、「確かに生きていたんだ」と実感することができる。ここにしか人類にとっての永遠はないのかもしれない。私たちがこの本を通じて新たに始めた想像も、きっと遠い未来の誰かにとっての「永遠」のかけらとなっていくのだろう。=朝日新聞2022年11月19日掲載