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【滋賀編】琵琶湖への溢れる愛と屈託と 文芸評論家・斎藤美奈子

ヴォーリズ建築の一つで、大正期に建てられた旧八幡郵便局=滋賀県近江八幡市、全日本写真連盟・澤野二朗さん撮影

 琵琶湖の面積は滋賀県のじつは6分の1である、とは「滋賀県あるある」のひとつ。とはいえ琵琶湖ぬきにこの県は語れない。戦国武将がここで権力闘争をくり広げたのも、琵琶湖を、あるいは近江を制する者が天下を制すとされたからだ。
 そんな歴史・時代小説の中でも最近の話題作は今村翔吾の直木賞受賞作『塞王の楯』(2021年/集英社)だろう。かたや比叡山麓(さんろく)の坂本(大津市)に拠点をおく石垣技能集団・穴太(あのう)衆。かたや湖北の国友(長浜市)で鉄砲鍛冶(かじ)の技を磨く国友衆。究極の盾(石垣)と矛(鉄砲)。名だたる武将を後背に押しやり、戦を憎む若き職人によりそう物語は、新しい時代小説の誕生を感じさせる。ブームは当分続きそうである。

 まあでも戦国だけが滋賀の売りではない。水郷・近江八幡は、彦根城や比叡山と並ぶ観光地。この地に今も残る多くの西洋建築(ヴォーリズ建築)を手がけ、メンソレータムの販売で名を広めた近江兄弟社の基礎を築いたのは米国人宣教師のウイリアム・メレル・ヴォーリズだ。

 玉岡かおる負けんとき』(2011年/新潮文庫)はその妻・満喜子が主人公である。
 子爵の娘に生まれた一柳満喜子は留学先の米国から一時帰国した際にヴォーリズと出会って結婚。大正8(1919)年、夫の本拠地・近江八幡に移住する。〈華族の娘が外国人に嫁ぐなど、聞いたことがない〉とディスられながらも、彼女は幼児教育のパイオニアとして動き出す。闘う女の一代記である。
 他方、芝木好子群青の湖』(1990年/講談社文庫)の舞台は1960年代の近江八幡。東京で生まれ育ち、美大を出た主人公の瑞子が「でき婚」により移り住んだ夫の実家がここの旧家だったのだ。
 嫁いびりの手本みたいな義母。近江商人らしく、めったに家に帰らない義父。鬱々(うつうつ)とした結婚生活でのわずかな希望は、療養中の義兄との会話と琵琶湖だった。瑞子は湖北の風景を染絵にして展覧会に出し、やがてシングルマザーとして出直す決意をする。いわば琵琶湖の風が後押しした、昭和の自立譚(たん)である。
 少し時代を下って、花村萬月惜春』(2003年/講談社文庫)の舞台は70年代。歌舞伎町でバイトをしていた佐山豊が京都で働かないかと誘われて赴いた先は琵琶湖畔にある雄琴(大津市)の歓楽街だった。けばけばしいビル群。タコ部屋みたいな寮。どこが京都じゃ!
 特殊浴場のボーイ見習いとして働きだした佐山は矛盾の中に叩(たた)き込まれるが……。〈悲しい――。/なにが悲しいのかは、わからない〉。琵琶湖の波音が通奏低音のように流れる、ほろ苦い青春譚である。
 地元滋賀県の高校生が主役を張る青春小説としては同県出身・瀧上耕の『青春ぱんだバンド』(2012年/小学館文庫)を推したい。
 舞台は21世紀初頭の長浜市。地元の進学校で落ちこぼれた秋祐は、ヤンキーのたまり場である農業高校の生徒・成俊に脅されてバンドを組むハメになった。国宝彦根城と違って長浜城はコンクリートの「お城ビル」。京都は古都どころか首都もかくやの大都会。自虐ネタで笑わせながらも溢(あふ)れ出る地元愛。湖北の地域特性がみごとに浮かびあがる。

 こうしてみると、琵琶湖への愛と京都の隣という立地から来る屈託が滋賀では鉄板ネタらしい。

 400万年前に誕生した琵琶湖が移動を続けて現在地に落ち着いたのは40万年前。弟子吉治郎湖猫(うみねこ)、波を奔(はし)る』(2012年/サンライズ出版)は地学と土木のそんな知見が満載の小説だ。坂本で育った少女と、彦根に住む少年を中心に進む物語は最後まさかの天変地異に至る。滋賀版『日本沈没』である。
 一方、滋賀の文化と自虐の諸相は、同県出身の人気作家・姫野カオルコの秀逸なエッセイ『忍びの滋賀』(2019年/小学館新書)に詳しい。「そうだ 京都、行こう。」というJR東海のCMのある年の映像は比叡山延暦寺だった。叡山を焼き払った安土城主・織田信長が高笑いし、坂本城主だった明智光秀が忍び泣きしそうな誤解。副題は「いつも京都の日陰で」。みなさん、延暦寺の住所は滋賀県です。お間違いなく。=朝日新聞2023年1月7日掲載