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滝沢カレンの「ばにらさま」の一歩先へ ある日突然、僕の目の前に現れた冷たい彼女。その正体は…

撮影:斎藤卓行

この話は、僕にとって一言では表せない。

いや一文だろうと百文だろうと収まらないだろう。

今でもこの季節がやってくると僕の心臓は激しく探そうとする、あの"トキメキ"を。

彼女との出会いは、ビルの隙間から冬を連れてくるように寒々しい風が吹き出した頃だった。

手袋をしていても熱さを感じる湯気たっぷりのホットコーヒー片手に僕は会社に向かっていた。

小学生の頃から鉛筆と消しゴムが僕の友達だと言っても言い過ぎてはいないほど、勉強と真っ向勝負してきた。

だから、夢みていた会社にも就職することができた。

ふと見上げた僕の世界に、
友情という存在はいなかったけれど。

手ぶらな心臓と共に今日も会社に向かう。

寒い風が鼻先を刺激してくる。

人と会話することなく、ひそかに季節を感じていく。

この日は僕には珍しく、毎日決まった電車に乗って出勤しているのに、一本早い電車に乗ってしまった。

少し余る時間の使い方すら僕には不自由。

挙げ句の果てに練り出したのは、遠回りして会社にいくことだった。

新鮮さにびくともしない僕の頭の中に我ながら無関心な奴だなと感じながら、ふと目線が動いた。

そこには、突如不自然に現れる公園があった。

すべり台、ブランコ、ジャングルジム、シーソー....

どこか懐かしい景色に、ついつい僕は足を運んだ。

「公園、久しぶりだな。こんな都会の真ん中に誰が来るんだよ。」

最後の力を振り絞ったような枯葉を纏う木々たちが僕に挨拶するようにカサカサしている。

人々の声はなくなり、
落ち葉を踏む音だけが、耳を通過する。

その時、

彼女は、現れた。

今考えたら、雨の日にピクニックするくらいおかしい出会いだった気がする。

「すいません!シーソー。反対側に座ってもらえませんか?」

突然かけられた声。

僕の中にそんな突飛な質問に答える言葉の引き出しはない。

固まる自分を感じながらも、
彼女のあまりに純粋な言葉に僕は、

「あ、はい。」

と答えていた。

ぎこちなくシーソーに向かって歩く。

「足と手が一緒です。アハハハ!!」

緊張のあまり僕は歩く足と手が一緒だったらしい。

「あ、アハハハ。」

とりあえず笑いを揃える。

僕はシーソーに乗り、彼女を正面から見た。

その時、僕と彼女の間に激しい風が通った。

彼女の笑顔が僕の前でスローモーションとなって動く。

通り過ぎる枯葉は桜に映り、
激しい風は温かい風に感じる。

白く透き通った艶やかな肌に、
長くて細い手足。

髪の毛は風を気持ちよく泳ぐほどサラサラで。

僕の世界に見たことのない存在がやってきた瞬間だった。

彼女はケタケタずっと笑っていた。

激しい風が通ったこと、
寒くてお互いの鼻が真っ赤だったこと、
初めましてでシーソーする僕らのこと、
僕の重みでシーソーが全く動かなかったこと。

ずっとずっと笑っていた。

そんな彼女を見て、僕も久しぶりに笑った。

26年間恋なんてしたことなかったけど、
これを恋と呼ばないのなら、
僕は一生恋とは出逢えないだろう。

それくらい僕の手ぶらな心臓はときめいていた。

彼女はシーソーから降りると、
僕に近づいてきた。

「あなたの今日1日を私にください。」

とんでもない提案だ。

学校も仕事を1日も休んだことがない僕に、休みは土日祝以外は存在しない。

でもそんな僕は、昨日までの僕。

今日から僕の世界は変わる。

「は、はい。あげます。」

これが、今日からの僕。

そして一日中彼女と過ごした。

まだお互い名前も知らないはずなのに、、
でもふたりにとって大切なことは自己紹介ではなかった。

お昼ご飯を食べたり、バスに乗ったり、
砂浜を歩いたり、夜空を眺めたり、
1日がこんなにあっという間だったことはない。

彼女と僕はあまりにも自然に手を繋いで、夜空を眺めていた。

「私たち、どうしてこんなに仲良くなれたんですかね。朝、会ったばかりなのに。」

「どうしてでしょう。でもすごくすごく楽しい一日でした。僕の、人生で一番。」

「え?!一番ですか?嬉しいなあ。私もじゃあ、一番です。」

「じゃあってなんですか。」

「誰かの一番になった時、それは私にとって一番嬉しいから、一番です!」

「意味わからないですけど、ありがとうございます。」

僕は今日が終わってほしくないと心から思っていた。

するとそんな思いが伝わったかのように、
彼女から、

「また明日も明後日も明明後日も、会ってくれませんか?」

と言われた。

頭の中はお祭り騒ぎだ。

嬉しくて、嬉しくて、顔は自然にとろけていく。

「はい!」

全く言葉の足りない僕だ。
嬉しい、とか、僕も同じ気持ちだ、とか味のある言葉を言えていたらよかったのに。

でもその日から僕と彼女は毎日一緒にいるようになった。

僕の家に泊まる日も増えた。

きっと、これが世間でいう彼女と彼氏だったのかな。

一緒にたくさん冒険をした。
彼女が見たいと言った景色は必ず見せたかったし、食べたいと言った食べ物は絶対食べさせたかった。

彼女がケタケタ笑う声、
おおきな瞳が垂れ目になる笑顔が見たくて。

いつも彼女は、
「ありがとう、楽しい!」と言ってくれた。

純粋さをそのまま形にしたような言葉だ。

その日は、僕と彼女はあまりに眠い昼下がりを迎えお昼寝をしていた。

夕方くらいに僕は先に目を覚ました。

夜ご飯でも作ってあげようと、スーパーに買い出しに行く時、ふと足元に落ちてきた一冊のノート。

僕は、そーっとノートを開いた。

そこにはぎっしり彼女の文字で埋められた日記ノートだった。

日記をつけているなんて、なんてかわいいんだろうと僕は思いながら読んでしまった。

僕と出会った日の事が事細かく書かれていて、
僕といて楽しいことなんかも書いてくれていた。

嬉しくて嬉しくて、つい僕はページを読み進めてしまった。

そのページに僕は愕然とした。

今日も大好きな彼と過ごした。
彼は今日は雪を見せてくれた。
冷たくて白くてとても綺麗だった。
かまくらを作ったり雪合戦をしたり、
白い世界をたくさん楽しませてくれた。

あぁ幸せ。

彼とずっとずっといたいな。

私の病気が治っていたらいいのに。
彼といるとついつい治ったつもりになる。

ごめんなさい。

彼女の日記の一番最後のページだった。

何も知らなかった。
未だに名前も知らないけど、
未だに僕は彼女を何も知らないのかもしれない。

僕は何度も何度もいろんなページを読み返す。

何か、何かもっと彼女を知りたいという一本の愛だけだった。

僕は、奇妙なことを発見した。

彼女の日記の日付。

今は2022年12月16日(金)

でも彼女の日記の日付と曜日は毎ページ間違っていた。

僕は背筋に虫が通るようなゾクゾク感を感じた。

鉛筆と消しゴムが友達だった僕からしたらなぜ曜日と日付が一致しないかなんて容易にわかった。

僕は携帯を取り出し、咄嗟にカレンダーアプリを漁った。

僕の携帯を触る手がそっと止まった。

手が止まったというよりは、脳が先に止まった。

だって、こんなことはありえないから。

彼女が記した日付と曜日が一致するのは、
2114年の世界。

僕はいま2022年の世界。

きっと、彼女の間違いだと何度も頭の中の右と左が僕を静める。

でも、もし彼女がほんとうに2114年の人間だったら?

僕がどんなに強く生きていても、出会えるはずない"時"を生きているんじゃないか、と無性に闇に突き放される感覚を味わう。

僕が初めて恋した彼女は、未来人?

肌の水分がすーっと乾いていくような、
喉も目もカラカラになっていくのを感じた。

そんな立ち尽くした僕の後ろで、
無邪気にお昼寝から覚めた彼女。

「わ〜すっきりしたあ!あれ?起きてたの?」

彼女が僕に近づいて来た。

僕の右手には携帯電話、左手には彼女の日記ノート。

彼女の表情は見なくても伝わった。

彼女が僕の手からそっと日記ノートを取る手がとても冷たかった。

冬のジャングルジムに触ったときのような冷ややかな、そして冷たい。

この時、僕は2つわかったことがある。

彼女は今の世界の人ではないということ、
きっと治らない病気を持っているということ。

彼女といると、言葉はたまに無様なほど無力になる時がある。

子供の頃から言葉足らずで、伝えるのが苦手な僕が、彼女の隣が居心地よかった理由はそうところにあったのかもしれない。

だからこの時僕と彼女の中に
言葉は出る幕なしだった。

彼女は日記ノートをそっとカバンにしまうと、
僕を後ろから抱きしめた。

部屋の中にいるはずなのに、
真冬の校庭にいるように冷たい。

僕は振り返り、正面から彼女を抱きしめた。

聞きたいことは山ほどあるはずなのに。

僕は恋愛の普通がわからない。

でもこんなのきっと普通じゃないってことだけは分かる。

それでもこの1秒に逆らえなかった。

彼女はしばらく僕の胸で泣いていた。

どれくらいだろう。

イラスト:岡田千晶

気付いた時は、窓から星が光っていた。

彼女はゆっくりと話し出した。

「黙っていたみたいだよね。ごめんなさい。
なんかいつも全部頭の中読まれていそうで、なかなか言い出せなかった。

カレンダー見ていたからなんとなくもう分かったよね。。」

「うん。でも信じられなくて。」

「そりゃそうだよね。
でも私ね、未来から来たわけじゃないんだ。
すごく複雑なんだけど、
地球にすごく似た星から地球にやってきたの。

私たちの星は、時が経つのがすごく早くて、
地球の1時間は、私たちの星では6年進んでしまうの。
驚きでしょ?」

「うん。ちょっとすぐには理解できないけど...」

僕の頭の辞書に時空についての引き出しはまだまだ空っぽだった。

「そりゃそうだよね。
だから、未来から来たっていったら未来なのかもしれないけど、同じ今を生きているんだよ。
1時間の進みはとても早いけどね。

だから病気の進行も早くなるんだ。
医療がいくら進歩しても、進行が医療を抜かしていく。。

私の星にいたら、私はきっと2時間も生きていられなかった。

だから家族にお願いして、時間がゆっくり進むこの地球に来たいって、それが夢だって。」

「でも、どうやって来たの?すごくすごく星と星は離れているでしょ?」

「そうなんだよね。
私たちの星は銀河系のもっともっと外にあるの。

きっと何百億年もかかる距離。

でもね、私たちの星から3年進んだ場所に、
地球に繋がるタイムリープできる空間があるの。

私たちの星では有名なんだよ。

地球はゆっくり時が過ぎるって。
だから治療代を使ってこの地球に来させてもらったんだ」

彼女はゆっくり話していた。

大きな瞳には、水々しい涙がたっぷり溜まっていた。

きっと彼女の決意は強いものだったんだろう。

1時間が6年の速さの星は、
僕には想像つかないほどに一瞬なのだろう。

彼女が生まれた星に帰ったとしても、
もう家族も友達もいないはずだ。

だってもう地球で過ごして1ヶ月にはなるはず。

1日地球で過ごしただけで、
彼女の星では、144年が過ぎる。

でも彼女はそれでもこの星、
この僕を選んでくれた。

彼女にとって、

"一日私にください"と

言った僕への一言はとても重みがある言葉なんだと知った。

彼女はそれ以上話さなかった。

彼女の病名も
彼女の年齢も
彼女の名前も

わからない。

そんな時空を越えてやってきた、彼女。

それが僕の初恋。

それからも僕と彼女は離れることなく毎日を過ごした。

彼女が地球に来てよかったと思ってもらうために僕は必死だったんだ。

窓を開けて眠るのが心地良くなる季節。

まさに冬から春へバトンタッチする頃、
僕の隣のぬくもりは消えていた。

目を覚さなくとも、身体が先に分かった。

いないって。

温もりという名前の、冷え切った彼女。

さよならもなかった。

いつもみたいに

「夢でも会おうね」

と彼女は言って僕達は眠りについた。

そして朝、彼女は

いなくなった。

僕の隣にはかすかに冷たい空気が漂う。

僕の枕が、ひんやり湿っていく。

瞬きしなくても、涙が波にのように枕に流れていくから。

彼女の枕の下に、何かあるのに気付いた。

僕は枕をどけると、彼女の日記ノートがあった。

きっと昨日のことが書いてある。

日付だけは彼女が生まれた星の日付のまま。

計算したら彼女はとんでもない年齢だ。

でも彼女はきっと、向こうの星の日付を忘れないことが唯一この星と彼女の星を繋げる架け橋だったんだ。

僕は最後のページを読んだ。

楽しい楽しい時間をありがとう。

私はあなたに会えて幸せでした。

だって生まれた星のままだったらあなたに会えてなかった。

この星で生まれてあなたと出会っていたかった。

あなたと同じ月日をもっと過ごしてみたかったです。

でもそれは欲張りだね。

だって私はもう何千年も生きたはずだから。

あの瞬間、私を見つけてくれてありがとう。

地球にきて、ほんとうによかった。

生まれ変わったら、私はあなたをまた探すね。

大好きでした。

さよなら。

ばにらより。

これが彼女の最後の日記。

"ばにら"

僕はこのとき彼女のことをやっと知れたような感覚がした。

何百億年も遥か遠い星からやってきた彼女。

小さくて細くて冷たくて、出会った時から今にも消えそうな彼女だった。

そりゃそうだ。居たことが奇跡だったんだから。

僕は日記ノートを握りしめたまま、涙と共に再び眠りについた。

「夢でも会おうね」

と彼女の声を飲みこみながら。

これが幻みたいに聞こえる、
僕の2022年冬の話だ。

3年たった今でも冬になれば彼女を思い出す。

いや春だろうと夏だろうと秋だろうと。

でも、僕が彼女と出会った公園はもういくら探してもない。

出会いの場所ごと彼女は消えた。永遠に。

恋の冷たさだけを残して。

約束するよ。

生まれ変わったら僕も必ずまたばにらを探すと。

敬愛の意を込めて。

氷より

(編集部より)本当はこんな物語です!

 都心のオフィスで働く広志は、3カ月ほど前から同僚の派遣社員・瑞希と付き合っている。色白で細身で冷え性で、触るとひんやり冷たい彼女に、友人がつけたあだ名は「ばにらさま」。自分みたいなさえない男に、なぜこんなきれいな女性が交際を申し込んできたのだろう? 広志は自分といるときの瑞希の言動に、どこか演技のような違和感をぬぐえずにいた。そして瑞希の部屋に招かれたある夜、広志はその意図を明確に悟ることになる――。

 2022年に死去した直木賞作家・山本文緒さんの、小説としては最後の刊行となった『ばにらさま』(文藝春秋)収録の短編です。徐々に謎解きが進んでいくミステリーにも似たタッチで、都会で一人生きる女性の孤独や生きづらさを描き出しています。