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家を出る者たち 「偶然の家族」映り込む時代 鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評23年2月〉

青木野枝 玉曇2

 家族や親子のあり方が議論されている。同性婚の法制化、代理母出産の認可。あるいは、宗教団体の“家族”の問題。家族とは何だろうか。

 『未成年』(光文社古典新訳文庫)の全巻刊行をもって、亀山郁夫によるドストエフスキー5大長編が完訳された。特に難解と言われる作だが、この新訳を読んで真っ直(す)ぐな家族小説だと感じた。農奴の女と地主貴族の間に生まれた私生児の手記の形をとり、農奴解放後のロシア帝国の無秩序と瓦解(がかい)を背景に、父子関係の離反と復活の可能性が描かれる。

 家父長制封建社会の物語のなかで、印象に残ったのは家を出る者たち、それも“未成年”の語り手ではなく、大人たちの「家出」だ。語り手の法律上の父で「永遠の旅人」となるマカール老人。罪の贖(あがな)いのため自らの土地を出て流離(さすら)う地主マクシム。対立と和解以外のルートとして「巡礼」が提示され、彼らは家父長制を棄捨し、無欲の境地を目指す。

 とりわけ、語り手の実父ヴェルシーロフの「家出」は最も複雑である。放浪して更生しては、また自己分裂して放浪を繰り返し、家長らしい「安定と権威」をかなぐり捨てるスキャンダラスな事件を起こす。

 最終章で提起されるのが「偶然の家族」という概念である。ヴェルシーロフには貴族の血筋により必然的に形成された家族と、農奴の女とたまさかに交わって出来た家族という二つがある。後者の類(たぐい)の家族を文学に描くのは時期尚早だと語り手が諭されるくだりがメタメッセージ的に機能する。『未成年』が実践したのはまさにそれだ。超越的視点をとらず、一人称に徹したこの手記は、形式も含めて時代の“混乱”に肉薄する。解説で述べられているように、作者と語り手とその父の、対立し融合する声の「三つ巴(どもえ)」が見事だ。

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 「出会いの偶然性を想像力によって組織する」という名言を残した寺山修司を甦(よみがえ)らせたのが、中森明夫『TRY48』(新潮社)である。寺山の下に集った“偶然の家族”とアイドル文化の行方を論じた歴史改変ものであり、寺山が生んだ/生むはずだったカルチャーを検証する。作中人物の声を借りれば、寺山は著書『家出のすすめ』を読んで家出してきた地方の若者たちで「新しい“家”」を作ったが、彼自身には父性がなく、一生、家出を嗾(けしか)ける子供だったと。

 本作も話法が極めて興味深い。AKB48に対抗するTRY48に採用された女子高生らを主人公とするが、彼女らは中森が寺山に憑依(ひょうい)される/寺山の声を乗っ取るための仮面だろう。寺山が存命なら「朝まで生テレビ!」「デスノート」「ももクロ」にどう発言し反応したか? 作者は寺山の寄坐(よりまし)になって思想模写を展開する。わけてもテンションが上がるのは、2人の声が相互伝染し主従が逆転するような箇所だ。寺山が岩井克人『貨幣論』を援用してアイドルの兌換(だかん)/不換紙幣論をぶつ所などは、中森側のボイスの迫(せ)り出しがすごい。バフチンが多声性の解説に使った「ふたつのことばの出会いと闘いの舞台」というフレーズがまさしくしっくりくる異色のサブカル論だ。

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 川上未映子の『黄色い家』(中央公論新社)も疑似家族小説である。「悪」とは何かを追究する圧巻の作であり、最近報道されるカード詐欺が扱われる。40すぎで非正規職の伊藤花は、約20年前に一時期共に暮らした吉川黄美子が監禁などの罪で裁判中というネット記事を見つけ、1990年代半ばからの回想が始まる。

 花の父は家に居着かず、母のスナック勤めで支える暮らしはつねに貧しかった。そんな生活に嫌気が差し、17歳のとき、母の知り合いだが素性のわからない黄美子さんについていき、スナックを開業する。そこへ、たまたま出会った花と同年代の蘭(らん)と桃子が住みつく。

 黄美子さんには仮定の話は通じない。人の気持ちは「腹が減ってんのかなとか、泣いてるなとか」ということしかわからない。生きづらさを抱えているようだが、彼女を陰で支えてきたのは福祉ではなく、裏社会の闇の手だ。家出同然の未成年の少女たちと、知的特性をもつ独り身の女性が寄り添う偶然の家族。その脆(もろ)さゆえに、花は「家」を守りたい一心で、ヤクザのシノギに手を出し、一線を越える。

 彼女たちは浮かびあがれるだろうか。ラストの展開に読者はほっとするだろう。しかしその後にこの物語は問うてくるはずだ。そうして一息ついて彼女たちのことを忘れることこそが、罪なのではないか、と。=朝日新聞2023年2月22日掲載