1. HOME
  2. ニュース
  3. ノーベル賞作家の大江健三郎さん死去、88歳 戦後文学の旗手

ノーベル賞作家の大江健三郎さん死去、88歳 戦後文学の旗手

大江健三郎さん=2015年4月3日、東京都調布市、山口明夏撮影

 戦後文学の旗手として、反核を訴え続けたノーベル賞作家の大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)さんが、3日午前3時過ぎ、老衰のため死去した。88歳だった。葬儀は家族で営んだ。喪主は妻ゆかりさん。後日お別れの会を開く予定。

 1935年、愛媛県大瀬村(現内子町大瀬)に生まれる。東京大学仏文科在学中の57年、東大新聞の五月祭賞を受賞した「奇妙な仕事」が評価され、文芸誌に「死者の奢(おご)り」を発表。新世代の作家として注目を集め、翌58年、戦時下の村で黒人兵を幽閉する「飼育」で芥川賞を受賞した。集団疎開した少年たちが疾病の広がる山村に閉ざされる第一長編「芽むしり仔(こ)撃ち」を同年刊行、初期の代表作となった。都市の無力な若者のアイデンティティーを問う長編「われらの時代」(59年)などを経て、61年、17歳の少年がテロリストになってゆく問題作「セヴンティーン」を発表。64年、脳に障害のある長男の誕生を描いた「個人的な体験」(新潮社文学賞)で作家として転機を迎える。苦悩を抱えて生き、無垢(むく)なものに再生される主題の作品を以降、繰り返し描いた。

 「反核・平和」の訴えは創作にとどまらなかった。60年には石原慎太郎や江藤淳らと「若い日本の会」を結成。日米安全保障条約に反対する活動に加わった。広島での取材体験を元にしたノンフィクション「ヒロシマ・ノート」を65年に、「沖縄ノート」を70年に刊行した。95年にはフランスの核実験に抗議して、同国で開催予定のシンポジウムを辞退。この件を批判した仏作家クロード・シモンとはルモンド紙上での論争に発展した。

 94年に川端康成に続いて日本人で2人目のノーベル文学賞を受賞した。故郷の四国の村から国家、宇宙へと神話的な文学世界が広がる「万延元年のフットボール」(67年)が翻訳され、評価されていた。受賞記念講演の題は「あいまいな日本の私」。文化勲章にも内定したが、「国家と結び付いた章だから」と辞退し、話題になった。

 2000年の「取り替え子(チェンジリング)」以降、自身を想起させる老作家を主人公とした長編の刊行を続けた。13年に発表した「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」が最後の小説となった。

 生涯、社会に関わり続け、04年に日本国憲法を守る「九条の会」を加藤周一や井上ひさしらと結成。東日本大震災以後は反原発のデモや集会にたびたび参加した。

 主な受賞歴に、67年「万延元年のフットボール」で谷崎潤一郎賞、73年「洪水はわが魂に及び」で野間文芸賞、83年「新しい人よ眼(め)ざめよ」で大佛次郎賞、94年度の朝日賞。77~84年と90~97年に芥川賞選考委員。01~07年度に朝日賞選考委員。選考をひとりで行う大江健三郎賞を05年に創設、14年の終了まで国内の気鋭の作家に光をあてた。

 朝日新聞では92~94年に文芸時評を担当したほか、コラム「定義集」「伝える言葉」を連載した。

 18~19年に「大江健三郎全小説」(全15巻)を刊行。21年には自筆原稿など資料約50点を東大に寄託し、研究拠点「大江健三郎文庫」の設立準備が進んでいた。

朝日新聞デジタル2023年03月13日掲載