その本と運良く出会えたのは、正月が明けてすぐのことでした。
神戸の商店街にある古本屋が、安売りの札を立てたワゴンを軒下まで出していました。商店街は初売りをつまみ食いしながら大丸百貨店へ抜ける人で賑わっていたけど、ワゴンの前には誰もいません。ふらっと覗いてみて、わかりました。100円の値がつけられている本たちはどれも日焼けしていて、巻数もチグハグなんです。いったいどんなお客が、通りすがりで『ダ・ヴィンチ・コード』の中巻だけを買っていくと思うのか。
こりゃあかんわと呆れていたら、わたしはドキンとする本を見つけました。
ル=グウィンの『こわれた腕環』でした。
ゲド戦記シリーズの第2作目で、家の本棚にも並んでいるのに買ってしまいました。こんなに素晴らしい物語に貼り付けられた100円の値札が、悔しかったからです。
帰ってぬるめの風呂に浸かりながら、本を開きました。
そして、びっくりしました。
文章に、線が引かれているんです。シャーペンを使ったような、薄くて細くて、不安定にぶれた線が。十数ページごとに息継ぎするかのごとく何本も。
どうりで100円なわけやな。
古本屋でミステリ小説を買ったら、犯人の名前に丸がつけられていたという無残な話を聞いたことがありましたが、自分で見るのは初めてでした。
綺麗な一冊を別に持っているので「まあいっか」と思いながら、読み進めました。
不思議な感覚に包まれたのは、第2章を終えたときです。
「前の持ち主、じっくり読むところがわたしと全然ちがうな……」
長編になると、いちおう目を通すけど、サッと読み飛ばすようにしてしまう箇所がいくつもあります。普段は気にとめない文章にも線が引いてあると、ついつい、視線が縫い留められてじっくり読んでしまいました。
わたしは『こわれた腕環』を読むとき、輝く宝石が無数に埋め込まれた玄室や、太古の精霊が支配する地下大迷宮に心を奪われます。というか読者はみんな、神秘的なそれらにドキドキ・ワクワクするもんだと信じていました。けれど前の持ち主はどうも、そうじゃない。冒険心をくすぐる不気味な舞台より、仲間たちと緑の水をたたえてゆったり流れる川で魚釣りをしたり、雲の影を眺めながら冷たいそば粉のパンケーキを食べたりする、和やかな日常の風景に線が引かれています。
あまり気の合わない相手だなと笑いつつ、何時間も読んでいると、どこに線が引かれるのだろうかと楽しみになりました。
線によってすれ違っていたわたしたちの読書はやがて、レンズの焦点みたいに、終盤の一文で像を結びました。
初めてわたしも線を引きたいと思う場所に、線が引かれていたのです。
「いいかい、テナー、よく聞くんだ。あんたは、たしかに、邪なるものの器だった。だが、器は開けられた。ことは終わって、邪なるものは、その自らの墓に埋められたんだ。あんたは決して、残酷や闇に奉仕するために生まれてきたんじゃない。あんたはあかりをその身に抱くように生まれてきたんだ。灯のともったランプは、周囲を明るく照らし出す」(清水真砂子訳、岩波書店)
わかるよ、と言いたくて。
肩を抱きたい気分になりました。
「こわれた腕環」は、海に浮かぶ島から島へ旅を繰り広げるゲド戦記シリーズの他の巻と比べると、ほとんど場面が動きません。ぶっちゃけ、地味なんです。名前を奪われ、光の届かない孤島の墓所を生涯にわたって守る巫女の物語。代わり映えのない毎日に息苦しくなり、大魔法使い・ゲドによってしがらみを解き放たれたあとも、今度は与えられた自由の重さに怯え、葛藤するの巫女の姿が生々しい。
この本を最後まで読み進めるというのは、暗闇の大迷宮の壁に手を這わせ、杖先に灯るわずかな光を頼りに、そろりそろりと歩んでいくような心地でした。まったく違う道をたどった、まったく違う感性のわたしたちは、美しい同じ玄室にたどり着き、同じ拍手を送ったということです。
弱くて情けない自分に、希望を持たせてやりたい。そうして外の世界へ飛び出すことに憧れるけど、うちのめされるのも恐ろしい。そんな孤独を持つわたしだから、最後の最後で、魔法使いゲドが巫女を励ますセリフに共鳴したんです。前の持ち主もきっと。
作者や出版社の名前が書かれている表紙の裏に、ハンコが押されていることに気づきました。
「聖路加国際病院 小児病棟蔵書」
前の持ち主が、この本を読んでいたであろう場所でした。
東京で入院している子どもしか手にできなかったであろうこれが、どうして神戸の古本屋のワゴンに。まったくわかりません。
『こわれた腕環』には、ゲドが遠い遠い離島で老婆からもらった欠片と、巫女が墓所で代々受け継いだ欠片がぴったり合って、ひとつの環になる場面があります。作者のル=グウィンは、あまり多くを語らない人です。その腕環がどこから、どうしてもたらされたのかは謎に包まれたままです。ただ、そうなるべき運命であったのでしょう。
3年前までわたしは会社員をしていて、オフィスへ行くために恵比寿駅で降り、東口改札から長い長いムービングウォークに乗って、毎朝毎晩、荷物かなにかみたいに運ばれる日々でした。わたしの死んだ魚のような目に、いつも映っていたポスターの言葉を思い出しました。
「自分のことを話すより、映画の感想を語り合う方が、お互いがどんな人か、分かり合える気がするの」
あの頃のわたしは、感想を語ることが今よりずっと苦手でした。作者の意図、隠されたテーマ、鮮やかなオマージュ、演出の効果、驚くような伏線―――。……感想にも正解があるような気がして、それを当てることができないことを恥じていました。
わたしの出会った線は、誰のことも否定しません。
ただの線です。
『こわれた腕環』に引かれた線は、傷のようでもあるし、たどってきた線路のようでもあるし、ひと筋の光のようにも見えました。一本の線が、ペンを走らせたその人の、見えない姿を浮かび上がらせる。なにも語らなくとも、深いところを語り合える。こういう読書ができる日を、ずっと願ってきたような気がします。
すべての本に、誰かの線が見えたらいいのに。