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ヤマザキマリさん初の翻訳絵本「だれのせい?」インタビュー 利他性で世界は変わる

『だれのせい?』(green seed books)より

寓意的な物語

――大きな剣を肩に乗せたクマが、小鳥と微笑みあう表紙に惹きつけられます。イタリアの人気作家ダビデ・カリさんの文、エストニアの絵本画家レジーナ・ルック-トゥーンぺレさんの絵で構成されたこの作品の翻訳依頼を受けたとき、どのような気持ちでしたか。

 率直に「おもしろいお仕事の依頼をいただいたな」という気持ちでした。もともと私は絵画美術を専攻した人間ですし、子どもの頃は絵本みたいなものをたくさん描いていました。そもそも漫画自体が、絵と物語で構成された絵本みたいなもの。漫画家が絵本を翻訳しても何らおかしい話ではありません。目を通してみるとどんどん日本語が湧いてきて、これなら辞書と首っ引きにならなくてもすぐに訳せると思いました。

 物語はアレゴリック(寓意的)です。クマが、自分の持っている武器がどれだけすごいかを実感したくて色々なものを切り刻む。その結果、洪水が発生して自分の家が流されます。最初に読んでふと思い立ったのは、やはり地球温暖化問題です。地球温暖化については、様々な見解があるので一概には言えませんが、人間が文明的な進化を目指そうとすると代償としていろんなものが失われダメになる。それが、この作品の根底にある大きなテーマである印象を受けました。

――レジーナ・ルック-トゥーンぺレさんの絵についてはどのようにお感じになりましたか。

 レジーナさんのことはこの絵本を見るまで存じ上げませんでしたが、「きれいだし、丁寧な絵を描く方だな」と、同じ絵描きとしても非常に触発されました。輪郭がない柔らかさの一方、深い陰影や色調にすごく重厚感があります。

 例えば、クマの盾の赤と緑の組み合わせも、日本人がよく子ども向けに選ぶ明るい配色とは対照的。私自身も、子どもの頃からの嗜好で、わりとおどろおどろしさや神秘的な雰囲気の漂うものが好きだったので、このくすんだ美しい色調を「いいな」と思いました。

 また、植物や果物、動物の衣服などもデザイン性が高いですね。バビルサの服の模様は民族的でエキゾチックだし、小鳥たちは一羽一羽のネックの高さがみんなそれぞれ微妙に違って、花柄や縞柄も少しずつ描き分けられている。すごくおしゃれですね。地面が文様的だったり、植物の描き方にも思い入れが溢れている。植生の持つ生命力への気持ちがこもっているなと感じます。

武器と利他性

――剣、盾、弓矢といった武器が登場します。

 武器は戦争を現し、気高いクマの兵士が何でも剣で切り刻んでしまうというのは、権威主義を表現しているように受け止められます。絵本の中ではクマですけど、彼がしでかす行動の隠喩はすべて人間にしか当てはまらない事。振り回すには大きすぎるほどの剣で、クマが木に切りつけるシーンや、バビルサが矢に傷ついて力なく倒れているシーンが印象的です。

――バビルサはイノシシの一種で絶滅危惧種ですね。

 後半、バビルサに刺さった矢をクマが抜こうとするシーンがあるのですが、そこだけは背景が真っ白で、クマとバビルサ以外何も描かれていないんですよ。読者の目がクマとバビルサに集中し、それ以外のものは一切が停止しているかのように、音もなく静かなページです。

『だれのせい?』(green seed books)より

 矢を射たのはクマでなくキツネですが、クマも、バビルサが傷ついた連鎖には関わっている。因果関係として繋がっているんですね。クマは取り返しのつかないことに対して何を思うのか……奥が深い、いろいろなことを想像させるし、いろいろなことを汲み取れるページだと思います。

――特に好きなページはありますか。

 やはり最後のページです。「ぼくのところでくらしていいよ」と小鳥たちに言ったクマは、倒してしまった木を上手に切り、ひとつの家を建てます。中央には鳥たちに居心地よさそうな家が描かれ、画面の右端に断ち切りで描かれたクマが小鳥を胸に抱いて立っていますね。自我や名誉という奢りを捨てる勇気を持ったクマが、一度壊してしまった鳥たちの世界を築き直す、象徴的な場面です。クマの凛々しくも優しい姿に「私たちの世界もこんな風だったらいいのに」という思いが込み上げてきました。絵本という媒体のポテンシャルを痛感させられました。

『だれのせい?』(green seed books)より

 人間の世界では、振り上げた剣を下ろすことも、クマのように「このぼくの盾を うけとっておくれよ」と自らを守る道具を差し出すこともとても難しい。この世は不条理で溢れています。理不尽なことを阻止することはできません。でも、なぜそんな理不尽が生まれたのか分析をすることは可能ですよね。クマの家に水が流れこむことも不条理だし、バビルサが矢に倒れることも不条理。けれど、利己的だったクマが盾を手放し、他者に奉仕することで世界は変わっていきます。平和を築くには利他性が必至だということが、作者たちによって強く示唆されているのがわかります。

予定調和的思考は危険

――「すべては思っていたとおり、とはいきません」と裏表紙に書かれているのはどのような意味なのでしょうか。

 イタリア語の原書を直訳すれば「目に見えているものがすべてではありません」となります。要するに、生きていく上で自分が都合よく思い込みたい予定調和に依存していると痛い目に遭いますよ、という意味でしょう。

 例えば、現在ロシアのプーチンがウクライナに侵攻して起こしている戦争にしても、イタリアでは日本のように「ロシアが悪、ウクライナが善」という単純な図式では報道されていません。領土が地続きのヨーロッパは、古代から闘争が繰り返され、因果関係は絡まり合っています。だからヨーロッパの人たちは報道に対し常に懐疑的です。報道は常に裏を読まなければ意味がないという猜疑心が日常的に稼働している。騙されれば騙されたお前が悪い、と言われる世界ですが、でもどちらを責めたところで根本的解決にはならない。だからこそ「善意」というものも生まれるのでしょう。「自省」も「善意」も「利他性」も、西洋ではキリスト教の教理を通じて人々の中に浸透している倫理だといえます。

――イタリアとエストニア、国を超えて作られた本書は、ヨーロッパの作家からのメッセージが込められているとも言えますね。

 この絵本の翻訳依頼を受けたとき、「なんてタイムリーな絵本だろう」と思いました。子どもはもちろんですが、この作品は、今こそ大人が読むべき絵本でもあります。

 2021年に中国で習近平がすベての塾を廃止し、宿題を削減するという教育政策を打ち出しました(「双減」)。中国に限らず、反教養主義的願望を持った為政者というのはどの時代にもいました。要するにホモ・サピエンスの“サピエンス”(ラテン語で「賢い」「知恵のある」)は統括を乱す恐れがあるので必要ない、ということです。日本も他人事ではありません。自分のベクトルを乱す人が現れれば「あの人重いよね」「面倒だよね」と処理し、想像力を省エネで抑えられる関係性が優先されているような気がします。

 日本では見たくないものには目をつぶり、子どもたちにも見せないし、知らなくていいものは知らせない。生まれてきたことへの肯定意識を確固たるものにするために、少しでも負の要素があるものは徹底的に排除する。ましてや自分の立場が悪くなるようなことは極力避けなければならない。子どもたちの集まる世界でも、日常のありとあらゆるところで「あいつのせいだ」「ぼくのせいじゃない」と言い募ることは起こりうる。そのとき「もしかして、自分が悪かったんじゃないだろうか」という疑念と向き合うことで、生き方は確実に変わってくるでしょう。たくましく生きていくためには失意も屈辱も経験として必須要素だということです。

『てぶくろ』のような愛おしい絵本をいつか描きたい

――初めて絵本を翻訳された感想はいかがですか。

 実は子どもの頃から絵本もどきみたいなものはたくさん作っていました。絵本は描いてみたいという思いは今もあります。絵本は、数ある表現作品の中でも、コンセプチュアルなものを魅力的な絵と端的な言葉とで構築する、非常にスペックの高い造形物だと思っています。翻訳をしたことで良質な絵本の構造を勉強できたことは漫画家という立場としてもとても役に立ちました。

――どんな絵本が好きなのでしょうか。

 昔から好きな絵本は、ウクライナ民話の『てぶくろ』(エウゲーニー・M・ラチョフ絵、内田莉莎子訳、福音館書店)です。おじいさんが落とした片方の手袋に、どんどん動物が入っていって、最後はオオカミどころかクマまで入ってしまう。物理的原則に何も適っていないし、どんな種族のどんな生き物も同じ手袋の中に納められていて、弱肉強食の定義が崩壊している。オオカミのような獰猛な生態まで怖い顔のままみんなと同じ方向を向いて詰まっているのがもう子ども心におかしくてたまりませんでした。「いつかこんな絵本を描きたいな」と夢見た作品です。唐突な終わり方もシュールで大好きですが、動物へのリスペクトを含め種族が違っても共生はなりたつという作者の意識が垣間見えてきます。姿を描かれていないおじいさんがまたいい。見えない登場人物が示唆される絵本は想像力が鍛えられるのでおすすめです。

 素晴らしい絵本は何度も読めるし、読んだものが確かに身体の中に残ります。『てぶくろ』のような抽象性はありませんが、『だれのせい?』はまさしく現代の寓話です。絵本を読んだか読んでいないか、その経験があるかないかで、人生のとらえ方に何らかの変化は生じるんじゃないでしょうか。自分たちの周りの出来事などをオーバーラップさせつつ、幅広い世代で読まれるべき絵本ではないかと思います。