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「ムラブリ」書評 国家支配を嫌い山に逃れた人々

評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2023年03月25日
ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと 著者:伊藤 雄馬 出版社:集英社インターナショナル ジャンル:社会・時事

ISBN: 9784797674255
発売⽇: 2023/02/24
サイズ: 19cm/255p

「ムラブリ」 [著]伊藤雄馬

 「森の人」を意味するムラブリは、タイやラオスの山岳地帯で狩猟採集生活を営む、500人前後の少数民族である。彼らは裸足で森に暮らし、畑仕事もしない。現在、定住化がかなり進みつつあるものの、遊動生活の名残を濃厚にとどめている。たとえば、彼らは雇用には向かないし、そもそも金銭を得ることに関心がない。森にある資源で衣食住をまかなう術(すべ)を知っているからだ。相互の人間関係は淡泊で、互いに干渉しない。感情表現や自己主張も希薄だ。徹底した個人主義だが、収穫物は平等に分け合う。ゆえに、富が集中せず、権力も発生しない仕組みになっている。
 実は彼らは、遺伝学などから、もともと農耕民だったと考えられている。本書の著者は、スコットが『ゾミア 脱国家の世界史』で述べた仮説に従って、ムラブリを、平地から山に追われた「負け組」ではなく、国家の支配を嫌って山岳部に逃れた人たちの子孫だと考えている。著者は学生時代に言語学者を目指し、研究対象に、文字も文法書も持たないムラブリを選んだ。その習得には、ムラブリから直接に学ぶほかなかった。その結果、「世界で唯一のムラブリ語研究者」となったわけである。が、それだけではすまなかった。
 この間の著者の経験を語った本書は、言語学や人類学の問題にとどまりえなかった。このような探究が、自身の生活を決定的に変えたからだ。彼はもともと違和感をもっていた日本での生活が嫌になり、さらに大学の教職も棄(す)てて、「環境と調和しつつお互いに活性化していけるテクノロジー」を求めることにした、という。現在は、日本で、実家が所有する山を拠点にして働きながら、人の家に泊めてもらったり、野宿したりして暮らしている。すなわち、彼自身がムラブリとなった。そして、自分の意志でそうなったというよりも、そこに「なにかしらの存在が動いている」のを感じている。
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いとう・ゆうま 1986年生まれ。言語学者、横浜市立大客員研究員。タイ・ラオスを中心に言語文化を調査研究。