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差別や偏見を含んだ古典、新訳やリメイクが与える新たな視点 鴻巣友季子の文学潮流(第3回)

©GettyImages

 先日、演劇界のアカデミー賞と言われるトニー賞が発表されたが、ミュージカル作品賞に禁酒時代のシカゴを舞台にした「お熱いのがお好き」が候補入りしていて驚いた。あのマリリン・モンロー演じる白人の、ブロンドの、美女の、セックス・シンボルが旋風を巻き起こしたコメディ映画(1959年、ビリー・ワイルダー監督)の舞台化。しかもギャングに追われた主役のバンドマン2人が女装して女性だけの楽団に入団する。いろいろな意味で差別と偏見(とみなされうるもの)の地雷原みたいな内容なのである。

 まだ観劇できていないが、当世のブロードウェイらしいリメイクに仕上がっているようだ。モンローの演じたシュガーには黒人の女優が、バンドマンのジェリーにはノンバイナリーの俳優が配され、同性婚の描き方を含め、ジェンダーとセクシュアリティの揺らぎが表現されているらしい。

 いまアメリカを真っ二つにしている論点というと、ジェンダーや妊娠中絶をめぐる性と生殖の諸問題、そしてもちろん人種の問題だ。こうしたテーマを扱った書籍に対しても、さまざまな運動が起きている。

 一つは、アメリカの「禁書運動」だ。保守、リベラルの市民それぞれが有害と感じる図書を公共・学校図書館から追いだす図書排除運動が過熱。ここに政治家たちも乗っかり、とくに保守派議員はLGBTQ+や人種に関わる図書を叩いて、来年の大統領選挙を見据えた票取りに利用している。

 さらに最近は、作品の文章自体を出版社が修正してしまう動きも英米圏で出ている。アガサ・クリスティーやロアルド・ダールなどの古典作品には、いまの目では差別的、侮辱的とみなされる表現や文章が間々ある。これが活動家の目に留まりキャンセル運動に晒される前に「浄化」してしまおうというのだ。歴史の隠蔽や改竄だという声も当然あがっている。

 フィクションにおいて過去になされた”罪”と文学はどう向きあったらいいのか? 私としては、作品自体をいじることには賛成できない。もっと他の方法で批評的な読み方を促すことはできるはずだ。

 一つには、注釈や解説を作品に外付けにするというやり方がある。たとえば、『風と共に去りぬ』の映画版だ。2021年、白人警官による黒人の暴行致死事件をきっかけに、同作の映画版が配信停止されことは記憶に新しいが、2週間後、人種に関する表現とその問題点を映画学者が論ずる4分半ほどの「解説」をつけて配信が再開された。

 もっと自由度の高い再評価法としては、翻案、リメイク、語り直しといった方法がある。「お熱いのがお好き」のミュージカル化も筋や台詞を大きく変えずに文脈を変える語り直しの一種だろう。近年のブロードウェイでは「オクラホマ!」や「マイ・フェア・レディ」といった差別要素のある古典ミュージカルにこうしたリメイクが行われている。

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 日本でもこのところ、”取扱い注意”の古典や神話が新しい形で次々と登場している。たとえば、北米の中高生への推薦リストにも禁書リストにも挙がるハーパー・リー『アラバマ物語』の新訳『ものまね鳥を殺すのは』(上岡伸雄訳、早川書房)。新訳というのも、新たな世界観の提示となりうる。

 原作の刊行は1960年。黒人の若者が集団で白人の少女2人を襲ったという、実際のレイプ容疑事件をモデルにしている。古典作品の邦題というのは変更しにくいものだが、それを変えたことにまず注目したい。物語の舞台は大恐慌中の1930年代、いまだ人種差別の強い南部アラバマ州だ。原題のTo Kill a Mocking Birdとは「ただ歌っているだけのマネシツグミを無慈悲に撃つのは罪だ」という作中に出てくる比喩表現で、新しい邦題は原題に忠実であり、イメージの喚起力もより強い。

 メイコムという町に暮らす正義感の強い弁護士アティカス・フィンチには、息子のジェムと娘のスカウトという兄妹の子供がいる。妻に先立たれ、料理人兼シッターの黒人女性カルパーニアが世話をしてくれているが、一家の暮らしは経済的にそう楽ではない。

 成長した娘の回想形式で語られていくなかで、大きな事件が二つ起きる。一つは黒人青年トムの白人女性へのレイプ容疑であり、アティカスが彼の弁護を引き受け(子どもたちはそのことで苛めにあい)、無罪の論証に成功したと思われたのに、白人陪審員団により有罪判決が出てしまう。その結果、トムは……。

 もう一つの事件は、レイプ被害者とされた女性の父親によるものだ。南部でホワイト・トラッシュと呼ばれた白人最貧層の彼は法廷で馬鹿にされたことを恨み、判事の家に押し入り、トムの妻に嫌がらせをし、ついにアティカスへの復讐に出る。狙われたのは……。

 これらの事件は確かにプロットの結節点になっているのだが、もう一つこの物語全体を大きくラップアップするストーリーラインがある。精神障害を負って長年家に幽閉されている白人男性にまつわるものだ。彼は「ブー」と呼ばれ、町の人びとに疎まれているが、「他者の身になる」ということをスカウトに教えてくれる存在でもある。 

 人種差別の酷さと不正さを訴え、ひとの気持ちに寄り添うことの重要性を訴えるこの小説のどこが禁書対象になるのか? 一つには、黒人や白人最下層に対する侮辱的な言葉遣いがあること。それから、リベラルな白人エリートがあたかも黒人の窮地を助ける正義の救い主のように描かれていること。これはwhite savior(白人救世主)などと呼ばれる概念で、社会正義のために周囲の反対を押し切って非白人を救う白人ヒーロー像を、白人側の目で都合よく描いていることを批判する用語だ。

 『ものまね鳥を殺すのは』は映画の影響もあり、告発小説、裁判小説のように思われているのではないだろうか? 確かに人種差別や貧富の格差を突きつける内容だが、今回新訳を読んで感じたのは、本作の核心にあるのは、町の人びとの日常とそのかけがえのなさ、ときにはグロテスクさを、きめ細かく描くという文学らしい営為であること、法廷ものというより家族と共同体を描く小説だということだった。

 無軌道な学生だったブー・ラドリーが家に幽閉されるまでの経緯、スカウトと兄が木の節穴に宝物を見つける体験、ふたりを罵倒してきた変人のミセス・デュボースと過ごした時間、カルパーニアと黒人の教会に参加し歓迎されたこと、友人ディルの家庭の事情、そしてブーの究極の孤独……。こうした面がより繊細に汲みとれるようになったのは、新訳というレンズのお陰でもあるだろう。

 新訳にあたり、訳者は当時の言葉はそのまま提示するという方針をとったと言う。「本書はそういう時代を描いた作品であり、子供が偏見に気づかされていく物語なのだ。その点で、語り手が無垢な子供であることはとても意味がある。翻訳においては、そうした点を考慮して、差別的な用語はできるだけそのまま使っている」と、あとがきで述べている。

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 次に紹介したいのは、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』のリメイク小説である林真理子『私はスカーレット』(小学館)だ。『風共』を創作の原点として挙げる林真理子が、原作の3人称文体をヒロインの1人称独白に書き換えた作品で、内容は原作に忠実だが、人物視点や人物造形に「ブレ」を感じた部分は修正を施したという。

 原作は3人称文体ながらスカーレットの視点と内心が伝わる特殊な話法を用いているので、だいぶ本音が”だだ洩れ”なのだけれど、『私はスカーレット』のヒロインはさらにずばずばと言い切っていく。また原作は作者がスカーレットの言動に寄り添ったかと思うと急に辛口の指摘をする「ボケツッコミ」の文体で書かれているのだが、林真理子はわがままなヒロインを徹底して擁護し応援する。

 視点の転換がよくわかる箇所がある。愛するアシュレの婚約を知らされる名場面で、「スカーレットは顔色ひとつ変えなかったが、唇は血の気を失った」という箇所は、スカーレット視点だと、「その瞬間、あたりの風景が変わった。白く音のないものになったのだ」となる。原作では彼女の唇が白くなるが、『私は…』では視界が白くなるのだ。

 新鮮なのは、黒人奴隷らのセリフがまったく訛っておらず、知的な印象をあたえること。私も新潮文庫で本作を翻訳した際、乳母のマミイには標準語で喋らせたのだが、作中には他にも先住民、白人貧困層、山岳民、移民、フランス系貴族などが、じつに多様な非標準英語で喋りまくるため、すべての訛りを取り去ることはできなかった。

 また、ヒロインの助力者となるレット・バトラーは、原作だとたまに失礼なことを言う。「ほう、スカーレット! 最近は新聞を読んでいるようですね! 驚いたな。悪いことは言わないからおよしなさい。あれは女性の脳を害します」などという箇所。林真理子版では、「何たること、スカーレット。君は新聞を読んでいるんだな。これは驚いた。そんなものは二度と読むんじゃない。あれは人の頭を混乱させるためのものなんだ」となっており、(そういう意図はないかもしれないが)ジェンダーバイアスが除去されている。

 しばしば問題視される、スカーレットが貧民街の白人と黒人男性にレイプされそうになるシーンにも、原作とは異なる点がある。原作では白人の指示で黒人のほうが手を下すのだが、映画版ではプロデューサーが配慮して、この実行犯役を白人に振り替えた。黒人はヒロインに指一本触れないまま川へ投げ飛ばされる。これが『私は…』では、どちらがなにをしたのか判然としない悪夢的な書き方になっている。襲われている本人の視点なのだから自然だろう。
 なるほど、原作に対してこのような読み直しの仕方もあるのだ。

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 いま英米は神話や古典の「語り直しブーム」で、男性中心主義の物語が女性や弱者の目でぞくぞくと描き直されている。直近では、ニナ・マグロクリンの『覚醒せよ、セイレーン』(小澤身和子訳、左右社)と、多和田葉子『白鶴亮翅』(朝日新聞出版)が強く印象に残った。前者は、オヴィディウスによるギリシャ神話の大叙事詩の語り直しであり、好色な男神がやりたい放題に女性や女神を誘拐し、レイプし、動物に変身させる話を、女側の視点で描き直す。後者は、『ハムレット』『ヘンゼルとグレーテル』『楢山節考』という超有名作を、作者いわく「負けた側の視点から語り直す」。いずれもクリティカルな読みの転換が鮮烈だった。

 時代と趨勢が変われば、正義の基準は移ろう。言葉遣いを変えたところで、差別があった事実は覆せない。いまアメリカの一部で導入されているのは、図書のキャンセルではなく、ペアリングという方法だ。たとえば、リーの『ものまね鳥を殺すのは』と、黒人青年の白人女性殺害とその裁判を犯人の視点から描くリチャード・ライトの『ネイティヴ・サン』を読み合わせ、パースペクティヴを相対化させる読書法である。古典の翻案や語り直しには、これと似た効果があるのではないだろうか。

 人類が行ってきた書物の発禁、回収、焚書、伏字、改竄などとは違う、まっとうな批評行為であることは間違いがない。