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書評家・杉江松恋が読む第169回直木賞候補作 大混戦! 月村了衛「香港警察東京分室」の受賞で大衆小説の世界は変わる(「日出る処のニューヒット」特別編)

杉江松恋さん=撮影・川口宗道

候補全作にミステリー的な要素が濃い

  『地図と拳』一強だった前回とうって変わって群雄割拠の状況である。
 第169回直木賞の選考会が7月19日に迫っているが、今回の受賞予想は難しい。
 世評の高さでいえば、先日第36回山本周五郎賞を受賞した永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』が頭ひとつ抜けていると思うのだが、私は同作を本命に推し切れない。好みで言えば月村了衛『香港警察東京分室』である。アクション小説なのだが志が高く、月村には未来の大衆文学界を背負っていってもらいたいと考えている。だが、今回が初候補ということもあり、どのくらいの票を集めるのか読みにくいのだ。初候補が1作、2回目が2作、3回目が2作で、これはほぼ横並びと見るべきだ。
 個別に作品を見ていこう。第169回直木賞候補に挙がったのは以下の5作である。

冲方丁『骨灰』(KADOKAWA)3回目
垣根涼介『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)3回目
高野和明『踏切の幽霊』(文藝春秋)2回目
月村了衛『香港警察東京分室』(小学館)初
永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)2回目

 現代小説が3作、歴史・時代小説が2作という構成である。おもしろいことに現代小説のうち2作がホラーに分類される作品だ。さらに言うと全作にミステリー的な要素があり、候補作家のうち3人が日本推理作家協会員である。極端なミステリー寄りの候補作になっているわけで、こういう回は今まであまり無かった気がする。

視界の歪みを共有させる都市伝説ホラー 冲方丁「骨灰」

冲方丁『骨灰』(KADOKAWA)

 順番に紹介していきたい。冲方丁は第143回の『天地明察』(角川文庫)、第156回の『十二人の死にたい子どもたち』(文春文庫)に続く3回目の候補である。歴史小説、ミステリーと来て、今回は初めて書いた本格的なホラーで候補となった。

 東京都渋谷区の渋谷駅前はここ10年近く再開発が続いており、街路や駅構内の様子がくるくると変化するため、昔からの利用者でも現状がどうなっているかよくわからない迷宮状態になっている。そこに主人公の松永光弘がやってくることから『骨灰』は始まる。松永は渋谷駅前の再開発事業を手掛けるシマオカ株式会社のIR部、つまり投資家向けの広報を手がける部署の社員だ。その地下工事現場に関して、ツイッターに不穏な投稿が相次いだ。いわく「ここでも火が出た、息が苦しい辞めたい」「作業員全員入院」などなど。それを捨て置いては企業としての信用問題である。休止中の工事現場に入った松永は、最深部で意外なものを見る。巨大な祭壇である。さらに奥に進むと、そこには鎖で足をつながれた男が寝ていた。驚いた松永は彼を連れて外に出ようとするが、突然火災が起き、動転している間に男は姿を消してしまう。

 その日から松永の周辺では異変が相次ぐようになった。妻子と住むマンションに、姿を見せない何者かが訊ねてきて執拗にインターホンを鳴らす。身の危険を感じた松永は、異変の根源は現場から姿を消した男であると考え、彼を探し始めるのである。

 謎の怪異に巻き込まれた主人公が追い詰められていく過程が迫力ある筆致で描かれる。松永の視点に同化する形で読み進めていくと、途中から見えているものがぐにゃぐにゃと歪んでいく感覚を味わうことになるはずである。分類すれば都市伝説ホラーということになるだろう。読者に視界の歪みを共有させる技巧に私は感心させられた。

劉邦を思わせる足利尊氏の人物像 垣根涼介「極楽征夷大将軍」

垣根涼介『極楽征夷大将軍』(文藝春秋)

 垣根涼介は冒険小説やスリラーの書き手だったが、ここ10年ほどは歴史小説に活躍の場を映している。過去2回候補になったのも第156回『室町無頼』(新潮文庫)、第160回『信長の原理』(角川文庫)と中世を舞台にした作品だった。今回の『極楽征夷大将軍』は『太平記』に挑戦した作品である。つまり鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてで、中心となるのは室町幕府の初代征夷大将軍となった足利尊氏だ。嫡出子ではなく、将来に何も展望が見いだせなかった少年時代の尊氏と弟・直義は気ままな生活を送っていた。嫡男の兄が亡くなったため尊氏に足利家相続の順が回ってきて、さらに北条氏が執権を務める鎌倉幕府の土台が揺らいだことから、潮目が一気に変わってしまう。本人には特に野望はないというのに、あれよあれよという間に人望が高まり、寄るべき大樹と崇められるようになるのだ。

 その運命流転がすこぶるおもしろく書かれている。2段組約550ページ、候補作中では最も分量がある。だが、あっという間に読めてしまうはずだ。極楽殿とあだなされた尊氏は能天気を絵に描いたような人物なのだが、周囲が好漢だ、高潔の士だ、と勝手に高評価を下してくれるのである。無垢の人が虚ろであるがゆえに却って全てを得るというプロットが用いられている。もちろんそれだけでは話が回って行かないので、生真面目な能吏である弟・直義と、忠実だが策謀の人でもある高師直が視点人物となる。あまりにもあっけらかんとしている尊氏に、彼らが振り回されるさまが可笑しい。

 アナクロニズム、つまりその時代にない要素を状況設定に盛り込むことで物語に変化を引き起こすという技巧が垣根歴史小説の核になっている。前回の『信長の原理』のように、そればかりが目につくという否定的な評価を下された作品もあった。今回はどうか。垣根の描く尊氏は漢の劉邦を思わせる巨人の感があり、その人物像は評価に値すると思う。また、終章のおもしろさは特筆すべきだ。建武の新政以降の人間関係は、寝返りや意外な者同士が手を組む例が多くて把握するだけでも本来なら苦労させられるものである。それを直義と師直の勢力図から捉え直し、わかりやすく整理してある。ここは苦労したはずだ。

ミステリー的な味わいもある幽霊小説だが 高野和明「踏切の幽霊」

高野和明『踏切の幽霊』(文藝春秋)

 高野和明『踏切の幽霊』は著者11年ぶりの長篇作品である。前回候補になったのは第145回の『ジェノサイド』(角川文庫)で、池井戸潤『下町ロケット』(小学館文庫)に敗れている。その他の候補者は島本理生、辻村深月、葉室麟で、後に全員が直木賞を受賞している。実力者揃いの回で運が悪かったように思う。『ジェノサイド』は第2回山田風太郎賞と第65回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門を受賞している。

 『踏切の幽霊』は、元新聞記者だが、今は女性誌の契約社員として働いている初老の男・松田法夫が1枚の心霊写真について調べるよう命じられることから話が始まる。時代は1994年に設定されていて、写真が撮られたのは小田急線下北沢駅近くの踏切である。編集部に持ち込まれたのは写真と8ミリフィルムで、同じような人影を捉えていた。さらにその踏切では、深夜に列車の非常停止が相次いでいるという。写真の真贋を調べて記事にするのが仕事なのだが、取材を進めていくうちに意外な事実が判明する。久々に記者魂をくすぐられた松田は、文字通り寝食を忘れて題材に打ち込んでいくのだ。

 幽霊小説の中には、故人は何者で生前に何があったのかという話に帰結していくものがある。つまり肖像小説で、これもそうした作品だ。幽霊として語られる正体不明の女性に、次第に顔や名前が与えられ、どんな人生を送ってきたかが浮かび上がるところが読みどころだろう。それについての調査にはミステリー的な味わいがあり、ある事柄についての真相解明という要素が絡んでくる。ただ、作中の時代を含めてひと昔前の物語という感じがすることは否めない。松田の人物像も含めて現代からは少し遅れているのである。そこは現代の大衆小説を評価するという観点からは減点対象になるのではないか。

大衆小説としては満点の出来 月村了衛「香港警察東京分室」

月村了衛『香港警察東京分室』(小学館)

 意外なことに初候補となる月村了衛は、〈機龍警察〉シリーズが現時点における代表作だ。近接戦闘兵器が普及し、警察組織にもそれが配備された現代という設定からロボットSFのような印象があるが、その根底には英国冒険小説やスパイ小説のプロットを現代によみがえらせようという試みがある。2018年の『東京輪舞』(小学館文庫)以降は昭和史の再構成も視野に入れた柄の大きな物語も手掛けており、現代における冒険・犯罪小説の旗手というべき書き手である。これまで直木賞候補にならなかったのが不思議なくらいだ。

 『香港警察東京分室』は、中国の公権力が日本に刑事捜査の国際協力を呼びかけ、香港警察の分室が東京に置かれてしまった、という架空の設定がまず目を惹く。当然ながら他国人に国内の捜査を任せるわけにはいかず、日本と香港が半々という呉越同舟の構成となった。そこに飛び込んできた任務が、香港で反権力デモの指導者だった元大学教授を捕らえるというものである。日本に潜伏しているという元教授の容疑は殺人罪なのだが、香港警察の狙いは別件逮捕で、政治絡みの捜査なのではないかという疑いを日本側は隠せない。この相互不信の状況が、捜査にどう影響してくるか。そして真相はどうなのか、という物語なのだ。

 日本と香港合わせて10人以上の分室メンバーを、月村は軽々と描き分ける。まったく説明をせず、行動の中で個々の人物像を浮かび上がらせていく群像劇の手法はさすがと言うしかない。さらに素晴らしいのは活劇で、3部構成のそれぞれで印象的な武闘が描かれるのである。突然始まり、終わりが見えない状態でどんどん激化していく。現代を舞台にして、ここまで迫力と説得力を兼ね備えた活劇が描けるということには感服するしかない。

 香港の不安定な政治情勢がもちろん背景に描かれ、そこに人間を信じるというのはどういうことかという普遍性のある主題も載せられていく。大衆小説としては満点の出来だと思う。個人的には一押しはこの作品である。月村に直木賞をあげると日本の大衆小説はだいぶ様子が変わると思うんだけど。

山本周五郎賞との2冠なるか? 永井紗耶子「木挽町のあだ討ち」

永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社)

 最後の永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』は江戸の芝居街を舞台とした時代小説である。第167回の候補となった『女人入眼』(中央公論新社)は鎌倉時代の物語で、尼将軍こと北条政子と娘・大姫の関係を、京都から下ってきた女房・衛門の視点から描いた作品だった。

 今回はひとつの事件が中心となる。ある雪の夜、菊之助という少年が亡父・伊能清左衛門の仇として元下男の博徒・作兵衛を討ち取った。それから1年後に、ある人物が関係者の元を訪ね歩き、事件の顛末が本当はどういうものであったかを談話によって明らかにしていくのである。複数の証言から不在の人物を浮かび上がらせていくという意味ではこれも肖像小説で、木挽町という芝居街に住みついた菊之助少年がその中心となる。

 オムニバス形式で話が進み、芝居小屋周辺の人々が次々に語り手を務める趣向である。吉原から流れてきた木戸芸者、武芸者崩れの殺陣指南役、衣裳方と端役の女形を兼業する男などなど。芝居街は辺境の悪所であり、堅気の衆とは縁遠い。逆に、そういう場所でしか生きられない者もいるのであり、ここが終の住処と心得た者たちの心根が鮮やかに描かれる。不在となった菊之助の残照が、彼らを浮かび上がらせるというべきか。優れた群像小説であり、だからこそ最後に判明する真相の意外さも際立つのだ。

 すでに山本賞に輝いていることから本作の優秀さは疑うべきもないが、ミステリーの構造を取ったことが逆に減点材料になりはしないか、という惧れもある。ミステリーとして見た場合は、どちらかといえば短篇向きの着想で、長篇の締め括りとしては私はやや物足りないと感じた。もちろん主眼は芝居街の群像を描くことにあるのだから、ミステリー要素は付け足しなのだが。もう一つ、松井今朝子『吉原手引草』(幻冬舎文庫)が第137回を受賞していることも気になった。似ているのだ、構成が。そこを指摘する選考委員が出そうな気もする。

 というわけで、個人的には『香港警察東京分室』を推すが、『木挽町のあだ討ち』が世評通り押し切り、もしくは戦乱小説としての柄の大きさを買って『極楽征夷大将軍』との同時受賞もあるかな、というのが現時点での予想である。今回は難しく、このあと考えが変わるかもしれない。待て、7月19日。

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