16歳のある日、わたしは「うさぎ」になった。
といっても、着ぐるみの話である。
うさぎの着ぐるみを着る仕事は、初めてだった。着ぐるみは首から足先まで、頭にはうさぎ風の長い耳をつける。
4コマ漫画のような絵コンテでは、うさぎ役のタレントが商品をPRしている。このうさぎ役がわたし。
コマーシャルに出演するのは2度目。オーディションで勝ち取ったチャンスだった。
胸元にリボンをあしらった濃いピンクのうさぎの着ぐるみ。着てみると案外重いが暖かい。冬の撮影でよかった。楽屋から歩いてスタジオへ向かう途中、すれ違う人が遠慮なくこちらを見る。わたしを見ているのではなく、着ぐるみを見ているのだろう。わかる、その気持ち。
「メインカットが終わったら、次は背景の撮影です」
わたしの出演は商品PRのカットで終わらない。うさぎの背景にも数頭のうさぎがいて、交互に横切っていく。このうさぎもわたしが演じる。背景も仕事のうちだ。
「うさぎっぽく元気にぴょんぴょんと飛んで」
演出家に言われた通り、元気いっぱいに飛ぶ。やってみると想像以上に難しかった。
うさぎは等間隔で、しかも同じリズムで飛ばなければならない。足元には着地点のバミリと呼ばれる印もあるのだが、カメラの方に顔を向けると目で確かめられない。
「もう少し前」「惜しい、あと5センチ後ろ」「顔が下向いちゃった」「高さが足りない」
何度やってもうまくいかない。着ぐるみの内側で滝のように汗が流れる。早く脱いでしまいたい。気持ちが焦って、知らず知らずのうちに顔が硬直してしまう。誰でもいい、お願いだからうさぎの飛び方の正解を教えて。
「笑顔でね」と励ましてくれるスタッフたちも、時間とともに表情が固まっていく。
硬直したうさぎと、硬直したスタッフ陣。終わりの見えない撮影が続いた。
ボールだと思ってもストライクだったり、その逆だったりすることもある。バッターはボールを4回見逃せば四球で塁に出ることができる。野球のストライクゾーンは難しい。
今年の阪神タイガースは四球が多い。
塁に出るという意味ではヒットと同じではあるけど、バッターボックスに立てば打ちたいだろう、と思ったりもする。
近本光司選手は一番バッター。ヒット数も多いが、今年は三振より四球の方が多い。
近本選手が打席に立ち、ボール球を見逃す姿を見ると、頭に「風林火山」の「山」の文字がクローズアップしてくる。
「ボール球に反応しないこと山のごとし」。
ピクリとも動かない迷いのなさに、球審が「ストライク」を言っても「これは近本選手がボールと思ったのだから、ボールなのだ」と納得してしまう。
バッターボックスに立つ、ということは、信じるものへの覚悟を示すことでもあるのだろう。
人は正解のない問いとわかっていても、問いかけずはいられない生物かもしれない。
「芸術とは何か」というストレートな問いに、日本画家の千住博さんは答える。
「コミュニケーションのことであり、芸術作品は人と人とのコミュニケーションの証」
芸術家はストイックに一人の世界を追求していくようで、実は作品を通じて人とコミュニケーションしている。
作品は誰かに見られることで、芸術作品になっていくのだ。
また野球にからめて、打率3割の首位打者だって、7割は失敗している、画家も同じだと書いている。
「ただ、大切なことは、駄作はむしろ傑作よりも人間味があるものです。人間自体が不完全なものですから、駄作にこそ、その人らしい人間味が出ているのかもしれません」
そう言ってもらうと失敗も必要な経過なのだと、ホッとする。
芸術についての147の質問に答えた本書を読みながら、芸術と野球は近いのでは、と感じた。
バッターボックスに立つように作品作りに取り組む。ここに立っている限り試合は続く。
良い作品を作るために、自分の判断だけが頼りとなる。
◇
ところで、硬直対決の結末である。
何度も繰り返してジャンプするうちに、わたしの体はうさぎ「ひととび」分の距離感を覚えることができた。体得した「ひととび」の感覚を信じて、足元を見ずとも等間隔に飛べた。体力の限界まで飛び続けて撮影は無事終わった。スタッフはみな笑顔になっていた。
時に自分の感覚を信じることで、困難を乗り越えられる。失敗はあったとしてもそれは必要な経過。自分で決めて判断し、実行する以外、道がない場面はある。
近本選手は7月2日の巨人戦でデッドボールを受けた影響で(この文章を書いている時点で)離脱した。シーズン折り返しを前に、阪神にとって(わたしにとっても)痛すぎる離脱である。
無事復帰した近本選手がバッターボックスに立ち、お馴染みのヒッティングマーチ「きーり拓けー勝利-への道」が流れる瞬間、わたしは判断する間もなく、絶対に泣くだろう。