1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. 違うのに同じ 他者が“生”に及ぼすもの 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年8月〉

違うのに同じ 他者が“生”に及ぼすもの 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年8月〉

絵・黒田潔

 二〇二二年七月一日からの一年間を計五十二人が“リレー”して綴(つづ)った日記特集というのが「新潮」九月号に載った。そこには自分も執筆者として加わっているので「いったい他の執筆者の眺めた一年間(とは『現代』だ)と、自分の一年間は、どの程度異なるのか?」を主な関心に読んだ。相当に違うと実感した。にもかかわらず、そこにウクライナの小説家アンドレイ・クルコフの日記が沼野恭子訳で(とは日本語でということだ)挿入される時、また多和田葉子が「わたしは二つに分裂していて二つの場所にいる」的にその日記冒頭で宣言する時、ふいに五十二人の全員が「やはり同じ時代にいるのだ」とも体感され、この了解は衝撃的だった。人が、同時代に生きていることを十全に理解するためには、ローカルな場所から離れた“誰か”に接する必要がある。

    ◇

 川上弘美「蜃気楼(しんきろう)の牛」(「文学界」九月号)は十六歳か十七歳で失踪した妹の産んだ子供の六歳以降を、ある種の日記・成長記録のように主人公の伯母が捉える。つまり他者の成長に触れるということだけれども、祖母を母親と信じ込ませられて伯母が実母ではないかと疑い始めもする姪(めい)の高校二年生となるまでの歩みは主人公のその“生”にきっちり反射する。彼女はかつて妹に「わたしたち、見てる世界がちがうんだね」と伝えたことがあったが、その違うのだという認識を踏まえた上で、異なると思っていた事柄はそうではないのかもしれないとの気づきが訪れ、他者(であり血縁者である姪)の存在は主人公のその“生”を豊饒(ほうじょう)にする。こうした作品の核心部以上に、姪の送って寄越す手紙の一文一文が、原初的な詩歌の力としか命名しようのない魅惑を湛(たた)えていて、なにしろ冒頭一行めから水際立つ。

 この「蜃気楼の牛」と奇妙な符合があったのがパク・ソルメ『未来散歩練習』(斎藤真理子訳、白水社)で、長篇(ちょうへん)内に挿入されている二種の物語の内のいっぽうの輪では、二十代後半の「叔母」を姉と呼んで認識している釜山の女子中学生が登場して、このユンミ姉さんが血縁者なのに究極の他者として彼女のその“生”に作用する。というのも、ユンミ姉さんは一九八二年に起きた釜山アメリカ文化院放火事件に関係している。そこから主人公の一人が歴史や政治というものに接するのだけれども、それを「自分とは関係のない時代のものなのだ」と思わないために、柔らかな柔らかな思考が連なる。また、もう一つの物語もそこに連なる。同じ思考の態度(というよりも姿勢)を持った違う時代の二人の女性、こうした作品構成が読者にも“未来”を散歩させる。ここには詩歌になる寸前の「小さな力」というのが文体に横溢(おういつ)していて、これを日本語に移した訳文もすばらしい。

    ◇

 小山内恵美子「奇妙なふるまい」(「すばる」九月号)は他人の人生やその“生”の記憶がじわじわと主人公夫婦の人生を侵蝕(しんしょく)する、どこか相当に切実に恐ろしい小説である。語り手は、無人駅を見下ろせるマンションの七階に越してきた。そして眼下のホームにまさに「奇妙なふるまい」をする白髪の女性を見出(みいだ)し、いつしか直接的な交流を始める。好奇心、親切心といったものは振るう側が殻をまとっていなければ危うい、との事実は、この一人称小説がどうしてだか「わたし」という主語をほぼ排したまま進行して、このことはうっかり読み進めると感受できないのだけれども、その主語のなさこそが殻のなさに通じると了解された瞬間に、いわば物語は奈落に落ちる。

 虚構的な「時代の記録」をそのまま封じ込めたのに近いのがジョゼ・サラマーゴの強烈な一作『見ること』(雨沢泰訳、河出書房新社)だった。ここでは政治は男性的なものとして非難、嘲笑され、同時にまた恐怖もされている。某国の首都で、有権者らの一種「奇妙なふるまい」として、総選挙なのに白紙投票が七、八割を占めた。これは一体なんなのか? 設定は幻想的、かつ政治的人物のその群像の描出は、それこそ日本のここ十年の文化的創造物だと「シン・ゴジラ」かと思わせるほどで、そうした序盤から中盤には読んでいて怯(ひる)む。にもかかわらず、読み進めるほどに何かを駆り立てられる。思うに、人が現実の“政治”に呆(あき)れるのは政治があまりにも人間的であるからで、だが人間がその“生”に希望を捨てないでいられるのも、やはり同様に人間的であるからだとの逆説を本作は雄弁に描いている。=朝日新聞2023年8月25日掲載