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フリをする 演技者が演技を重ねるごとく 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年9月〉

絵・黒田潔

 岡田利規の「宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓」(「新潮」十月号)が面白すぎる。宇宙の音楽をどう定義するかとの問いや、地球外知的生命体をどう設定するか、私たちのコミュニケーションの軸である言語とは何か、これらの設問(とは言えないのだが)の連打が痛快だ。しかもシニカルな笑いに満ちる。だが、これは戯曲作品であると明かした途端に「ならば読まない」と反応する層は確実にいる。なぜか? 戯曲は上演された舞台を鑑賞しない限り“未完成”の作品だからか? こういう考えが仮に支配的ならば自分は愕然(がくぜん)とする。なにしろ雑誌に発表されているのだから“完成”作として読めばよい。また、著者の岡田は後記のようなものを添えていて本作は日本語を母語としない俳優たちとの舞台作りの土台として執筆されたと明かしているが、これも無視して構わない。こんなふうに作者よりも読者を優位に立たせる読み方から判明することは何か? この戯曲が、ト書き(とは演技等を指示する文章である)に「○○するフリをする」という表現を多出させている事実の凄(すご)みである。俳優とは演技をする人間だと定義できるのだから、その俳優にさらにフリをすることを求めれば、これは「演技をする人間たちが演技をする」という事態を出現させる。ロボットが人間と同じ行動をとる、や、地球外知的生命体が人間と同じ外見をしている(かもしれない)等は、つまり岡田の刻むト書き一つで正当さを与えられている。

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 この「フリをする」の射程は大きい。ミシェル・ウエルベックの『滅ぼす』(野崎歓・齋藤可津子・木内尭訳、河出書房新社)はまさに小説作品として「フリをする」姿勢をエンジンにした巨篇(きょへん)だとも言える。第一にジャンルの問題がある。冒頭は政治小説の体裁で、国際謀略が描かれそうな予感に満ちる。そして事実、本作は政治小説であることを全うするし――二〇二七年のフランス大統領選挙が描かれる――サイバーテロの描出も見事だ。にもかかわらず、作品の冒頭が読者に予想させる着地点とは全く異なる地平に私たち読者は導かれる。この小説は家族小説あるいは恋愛小説として終わるのだ。文学作品におけるジャンルとは読者を“誘導”する仕掛けであり、だがそんなものは「フリをする」機構でしかないのだから裏切ることに何ら問題はないとウエルベックは考えているように感じる。そして第二、家族小説としての側面の痛切さ、哀切さ。ある主人公の人生に共感できるとはどういうことなのか? 小説の登場人物は「実在しない」のに私たち読者は感動というのをする。まして近未来小説である。これは演技をする人間がさらに重ねて演技している構造に通じる。しかも読み手である自分はリアルに感動した。

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 成り立ちがユニークであったようなのは村田喜代子『新古事記』(講談社)で、巻末の謝辞によればアメリカの原爆開発絡みの手記(著者は女性)の小説化がその出発点だ。しかし最終的には主人公などはオリジナルに設定し直されたという。これはノンフィクションの小説化がさらに小説=虚構の度合いを深めたということで、演技者がさらに演技をすることと同列に語れる。そして見えてくるのは、日系の三世にもかかわらず原爆開発の地へ赴いた若いアメリカ人女性が、そこで「無垢(むく)に過ごす」日々の驚異的なありさまである。そこには「勉強をする」学者たちと、その家族と、犬たちしかいないに等しい。誰ひとり悪をなそうとしていないのに、史上最大の悪を生む場に臨む、とはどういうことなのか? それが「フリをする」作品だからこそ描き切られたとも言える。

 上田岳弘『最愛の』(集英社)で最もフリをしているのは、恋愛のその真相をギリギリまで明かさない語り手の“僕”だ。ゆえにミステリーだと言えるが恋愛小説として読者を“誘導”しつづけ、かつ著者の狙いは「バラバラの時間の作品化」にあると推し量れる。この試みは達成されている。が、結末まで宙吊(ちゅうづ)りにされる題名の「最愛の」とのフレーズは、読む渦中には別なフレーズを喚(よ)び起こす。本作は明らかに、最愛の村上春樹、であるのだ。こうした評言は揶揄(やゆ)ではない。全篇が村上の文学世界を危険なまでに踏まえ、特に『ノルウェイの森』が下敷きとなっている。ここにも演技者がさらに演技をする様相が看取されて、かつ主題に対する著者の切実さに嘘(うそ)は混じらない。現代の実相の一つだろう。=朝日新聞2023年9月29日掲載