ちょうど就職氷河期の時代であった。就職活動はしたが、希望する会社には入れず、フリーターになった。小説家になりたいと淡い希望を抱いていたので、アルバイトしながら物を書こうと思った。だが甘い考えだった。バイトしながら物を書くなど、よほど強靭な精神力でないと難しいことを悟った。日々バイトに追われ、心身ともに疲れ果てた。ワープロに向かうはずが、惰眠の日々になった。
1年間フリーター生活をして結局、正業に就いた。きちんと正社員になったほうが、物が書けるのではないかと思ったのだ。だが、それも甘い考えであった。小さな出版社の営業部で主に書店廻りをしたのだが、来る日も来る日も書店を廻って新刊、既刊を営業していると、疲労がどんどん溜まってくる。俺は一生重い営業カバンを持って、果てしなく書店を廻り続けるのだろうかと思いはじめると、ますますしんどくなってきた。そのうち、故郷の和歌山に帰って就職し、のんびり物でも書こうという思いが湧き上がってきた。
そうして約3年余り働いた出版社を辞めて、故郷に帰った。しかしながら、またこの考えも甘すぎた。和歌山の田舎ではさらに就職が厳しかった。地元の書店、新聞社、タウン誌などに履歴書を送ったが、どれも不採用。打つ手がなくなり、またフリーターになった。全くやりきれなかった。ことごとく自分の浅はかさのせいで、またもやフリーターに逆戻りだ。日々鬱々とした気持ちを抱えて、バイトのないときは50ccの古ぼけたバイクを闇雲に飛ばしていた。どこにも行く場所がなかった。そんなとき、田舎道の脇にログハウスを見つけた。
どうやら喫茶店らしい。バイクを止めて扉を開けた。すると、大音量が僕の全身にぶち当たってきた。店員の見当たらない入口でしばらく立ち尽くした。「すみません!」と店の奥に声をかけてみる。カウンターの奥まったところから、マスターらしき人が出てきて、「いらっしゃい」と笑顔を見せてくれた。
カウンターに座り、ドリンクを注文。今、流れている音楽のことをマスターに訊いた。マスターは、デビッド・マレイのアルバム『Octet Plays Trance』を手渡してくれた。聴いたことのない音楽だった。たぶんジャズの一種だろう。僕はその頃、ルイアームストロングとセロニアス・モンクのアルバムを1枚ずつくらいしか持っていない、ジャズの超初心者だった。『Octet Plays Trance』の祝祭的な八重奏が凄く新鮮で、こんなジャズもあるんだなと聴き入った。鬱屈して霧がかった心が晴れていくようだった。力強い音楽の洪水が身を浄めた。ボディーブローを爽やかに喰らったような感覚で、僕の眼は見開かれた。
それからせっせとジャズ喫茶に通うようになった。月に一度、ライブも行う店で、生で演奏されるジャズを僕は初めて浴びた。「聴く」だけではない、体全体で楽器の響きを感じ取って、音楽を浴びるライブ体験であった。
スーパーや鮎の養殖場でバイトしながら、20代も半ばを過ぎた僕は相変わらず宙ぶらりんの状態だったが、ジャズがその空白を埋めてくれた。そんなある日、あのデビッド・マレイがこの店でライブをすることになったとマスターがいち早く教えてくれた。「これはえらいことになったで!」と、僕は興奮した。この店で最初に聴いた、強烈で爽快なボディーブローを繰り出してきたジャズを生演奏で聴けるんだと胸が大きく高鳴った。
ライブ当日。ニューヨークから関西国際空港を経て、デビッド・マレイ・カルテットがこの店にやってきた。確かカルテットだったと思う。編成をはっきり覚えていないのは、あまりにマレイの演奏が圧倒的で、他のメンバーの印象が消えてしまっているからだ。
マレイの第一印象は、「どえらい胸板の厚い男やな」だった。その胸板の厚さは、当然演奏にも影響を及ぼす。テナーサックスとバスクラリネットを主に吹くマレイにとって、身体的なパワー即ち肺活量が物を言うのだ。それは実際ライブが始まって証明された。
とにかく物凄い演奏だった。マレイのテナーサックスは息が長い。人間がこんなに吹き続けられるものかと思うほど、長々とフレーズを奏でる。どこまでもブローし、どこまでも旋律が高まる。マレイは循環呼吸法というものを用いて息の長さを保持しているらしいが、それだけではない。あの胸板だ。あの分厚い胸板がとんでもない肺活量を生み出し、サックスの七変化する音色へと転化してゆくのだ。どんどんどんどん高まりゆくサックスの旋律に、やがて観客みなが総立ちになった。大拍手が沸き起こり、観客が揺れる。「わあああ!」「うおおお!」という歓声が入り混じる。会場のログハウス全体が振動する。僕も揺れた。僕自身も響いていた。まさしくトランス状態に陥り、マレイに踊らされていた。音楽の神が舞い降りた瞬間に、眼の前で立ち会ったような高揚。僕の憂鬱など吹き飛んだ。
演奏後、マレイと握手を交わした。胸板だけでなく、手も分厚かった。桃色の掌が美しく輝き、握力がやたら強かった。
マレイが低い声で、「サンキュー」と言った。僕もぎこちなく微笑んで、「サンキュー」と返した。