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嶋津輝「襷がけの二人」に陶酔 台所のおしゃべりで浮かぶ戦時下の下町の人と心のありよう  書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第7回)

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日々の家事を通し、結びつきを深める女たち

 心を描くことを主眼とした小説、だと思うのである。
 嶋津輝『襷がけの二人』(文藝春秋)は、級友から〈学校の全員の顔を混ぜ合わせて出来上がったよう〉だと言われる、印象のない顔に生まれついた女性の半生を描いた長篇小説である。元の名前を鈴木千代、結婚して山田千代となり、訳あってまた鈴木に戻った。姓も名も、ご覧のとおり平凡極まりない。生家は池之端で、嫁ぎ先は下谷である。旧・下谷区、現・台東区の中でぐるぐるしている。東京下町っ子の小説と言っていいだろう。
 1949年の現在が起点の小説で、千代が19歳だった1926年まで時代はいったん遡る。大正天皇が崩御して年号が昭和に切り替わった年だ。その年、千代は山田家に嫁いだのである。

 1949年の話は、鈴木に戻った千代が口入屋、すなわち職業紹介所から斡旋されて三村初衣という三味線のお師匠さんの家を訪ねる場面から始まる。初衣は目が不自由なため、住み込みで働いてくれる人を探していたのだ。三村家を訪ねた千代は、初衣が自分が誰だか気づかなかったことに安堵する。千代の声は、戦争を経て元のそれとは似ても似つかぬ銅鑼声に変わってしまっていた。初衣から視力を奪った1945年3月10日の東京大空襲が原因である。その晩千代は〈熱風と人いきれのなか、ある人の名前を叫びつづけた〉ために、喉を傷めてしまった。

 冒頭に置かれた章の題名は「再会」である。千代の〈お初さんは、昔っから、人にものを教えるのが上手かった〉〈そればかりではなく、人のいいところを見つけて、そこをさらに際立たせるのが得意だった〉という述懐から、2人が旧知の仲であることはすぐにわかる。ではなぜ、千代は自分の素性が初衣に知れることを怖れているのか。実は、かつては立場が逆で、千代が雇い主として初衣に給料を渡す立場だったのだ。
 この関係がどのようなものであったか、ということが第2章以降で語られていく。初めは主人であった主人公が雇い人の立場となるというのは没落・零落の図式だが、本作は階級構造に関する物語ではない。父親同士が親友の間柄ということでまとまった縁談で、千代は鈴木家から横滑りするような形で山田家の奥に収まった。家事全般を取り仕切っていたのはお初さんこと初衣で、千代よりは3歳ほど下のお芳ちゃんという女中がもう1人いる。この3人が、日々の家事を通じて心の結びつきを深めていくのである。

 小説にはある仕掛けが施されている。千代の夫となった茂一郎は物静かで、穏やかな人物なのだが、なぜか妻との縁は薄いのである。この不思議がしばらく物語を牽引していく。理由が明かされるのは小説の折り返し点に当たる付近なので、ここで書くのは遠慮しておく。夫である茂一郎が前面に出てこようとしないので、必然的に『襷がけの二人』はそれ以外の、女たちの物語になっていくのである。襷がけというのは、和装が当たり前だった時代に、袖たもとが邪魔にならないように始末した格好のことで、昔だったらおさんどんのなりとでも言うところである。台所は家の中では奥向きだが、茂一郎が背景に逃げ込もうとするので、舞台はぐるりと回ってそっちが表になる。台所のおしゃべりが本題になるのだ。

 物語にはもう1つ謎がある。山田家に入ったばかりの千代はまだ物が見えていないが、横から余計なことを言う者もあって次第に人間関係を把握していく。謎というのはお初さんにまつわるものであり、やはり折り返し点でそれが判明するのである。
 2つの不思議が相次いで解消されると、以降は人間関係がそれまでと少しだけ変わって見えるようになる。このへんの展開は大衆小説の骨法を押さえたもので実に上手い。山田家の女たちの関係も、そこで少しだけ変化するのである。お初さんと千代は、その変化によってさらに結びつきを深めていく。それは戦局が深刻化していく時代ともちょうど重なっており、次第に窮屈になる時世の中で、2人は肩を寄せ合うようにして暮らし始める。千代が重大な秘密を知ってしまい、しょげかえっているところで新聞を開き〈「二時間を直立不動。粛として聲なき被告。五・一五事件の海軍側公判、峻厳なる論告終る……」〉と記事を読むあたりなどは驚くほどに技巧が詰まっている。前年に起きた、陸海軍の青年将校による反乱事件の公判が開かれているのだ。ここから物語は暗い時代に入っていくことがさりげなく示されている。

料理の描写で物語の輪郭が明確に

 どこでもありうる物語とここだけの物語というものがあるとしたら、本作は後者だ。昭和のその時代、東京下町という舞台でなければありえなかった人間関係、心のありようが描かれているからである。千代やお初さんの人生は、現代人の感覚で理解してはいけないものである。たとえばこの時代の女性が置かれている社会的地位は、現在とはまったく違っている。その中でどう生きたかが描かれているのであり、読者は自分とはまったく違う時代を生きた千代たちと向き合うことになる。そのために必要なのは、現代を離れて昭和前期の下谷に時間も空間も移動することで、作者は意を尽くして世界を作り上げている。物語の中ではお初さんや千代が料理をこしらえる描写が頻出する。それは世界のディテールを細密化する上で必要な小説の部品なのだ。
 日本が暗い時代に入った1941年、千代は町内会の集まりが家で開かれるために茶を淹れる。大きな急須に入れた〈ほんの少しの茶葉〉が開いたところで〈木べらで全体をかき回し、沈んだ茶葉を急須の底にぎゅうぎゅうと押しつけ〉る、という乱暴な淹れ方をするのは言うまでもなくお茶が貴重品になりつつあるからだ。こうした形で作者は細部を固め、物語の輪郭を明確なものにしていく。描写によって小説を成り立たせているのである。舞台がしっかりしているからこそ、その上に立つ千代たちの心もはっきりと見えてくる。
 人の心は不変ではなく、その時代によって大きく左右されるものだろう。作者が書きたかったのは何があっても変らないもの、人の心の中央にある普遍であったはずだ。だがそれを直接書かなかった。誰もが国家の変転と無関係にはいられなかった時代の様相を背景に描き、現在とはまったく違った家族や社会に関する観念を登場人物たちに持たせた。そうしたものが安易な同一視を阻んだとしても、読者は自分と共通するものを小説内に見つけようとしてくれるだろうか。それが本作で試みられた作者の挑戦である。成功したと私は思う。
 物語は戦争を経て、終盤で再び現在に戻る。中盤までの展開ですっかり魅了されてしまっていた私にとって、それからの90ページあまりは至福そのものの読書体験であった。読み終えてしまうのがもったいない小説というのはこういうものを言うのだろう。読み終えた瞬間にまた前に戻りたくなる小説というのはこの作品のことを言うのである。

 嶋津輝のデビュー作は2016年に第96回オール讀物新人賞を受賞した「姉といもうと」。同作を含む短篇集『スナック墓場』(文庫化に際して『駐車場のねこ』に改題)が2019年に刊行された。それ以来ずっとこの人を待っていたのである。期待をはるかに上回る第2作であった。嶋津輝、これから大きな存在になるぞ。