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春日武彦さん「恐怖の正体」インタビュー 人の心の根源的な謎に迫る

春日武彦さん=種子貴之撮影

何を怖がっているかでその人が分かる

――精神医学を中心に多くの著書がある春日さんですが、恐怖をテーマにするのはこれが初めてですね。

 それに近いことはずっと書いてきましたが、恐怖とは何かというテーマを正面から扱ったのは初めてかもしれません。あらためて論じてみようと思ったのは、それが多くの人を惹きつけるテーマだからです。黒板に「恐怖」の2文字を書いたら教室内が静まった、という国語教諭の話を紹介していますが、やっぱり恐怖というのは誰にとっても気になる話題だし、人間を理解する入り口としても無視できない。どんなものに恐怖を感じるか、それをどう表現するかで人間性がはっきり出ますから。マッチングアプリに「何が怖いか」を書かせる項目があってもいいと思うくらいです(笑)。だからこそ挑戦し甲斐があるし、多くの人に読んでもらえるだろうとも予測していました。

――着手してから書き上げるまで、6年ほどかかったそうですね。

 一口に恐怖といっても幅広いんですよ。書いていくうちにあれも入れたい、これも入れたいと欲が出てしまって、収拾がつかなくなりかけました。ホラーが好きな人間って「こんなマイナーな作品も知ってるぜ」と、知識を誇りたくなるじゃないですか。書きたいものを全部書いたらとんでもない厚さになるので、ポイントを絞って論じることを心がけました。

――本の冒頭に「恐怖の定義」が記されています。「①危機感、②不条理感、③精神的視野狭窄――これら三つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる」というものです。

 恐怖とはこれこれである、というシンプルに言い切る形だと、どうしても網目からこぼれ落ちるものが出てきてしまう。それを極力減らすためには、座標軸として恐怖を考えるしかないんですよね。恐怖の定義に完璧はないんですが、議論のための足がかりは提示できたかなと思います。

――「③精神的視野狭窄」という条件は面白いですね。確かに人は恐怖に駆られている時、他のものがまったく目に入らなくなります。

 恐怖になんとか対処しようと集中するわけですが、そのことで精神の余裕や柔軟性が失われ、ますます圧倒されてしまう。そして恐怖はさらに膨らんでいく。こういう悪循環は誰しも覚えがあると思います。楽しい時にはこんな状態になりませんから、精神的視野狭窄は恐怖を考えるうえで大きなファクターのひとつなんです。

『恐怖の正体』(中公新書)

恐怖症は文学で取り扱うべき対象

――集合恐怖、高所恐怖などの恐怖症についても詳しく取り上げられています。春日さんご自身は甲殻類恐怖症で、エビやカニが大の苦手だとか。

 ええ、あれほどグロテスクな生物が地球上にいるのが信じがたい。さっきの恐怖の定義に照らして考えると、恐怖症の人たちは本当の危機を感じているわけではないんですよ。私だって甲殻類に命を狙われると思っていません。その代わり対象への嫌悪感があって、それが不条理感や精神的視野狭窄と相まって、恐怖によく似た感情を生み出していく。

 じゃあなぜ甲殻類に嫌悪感を抱くのかといえば、一応の理屈はあるんです。形状が妙にメカニカルで、コミュニケーションが一切成立しない感じがするのが怖ろしい。しかも外側は堅くて威圧的なのに、内側はぐちゃぐちゃと柔らかく、その中に魂というべき部分まであるらしい。生と死の境界線が曖昧なところがなんともイヤです。考えるだけで鳥肌が立ってきました(笑)。

――本来、危険ではないものを極端に恐れる恐怖症。その背後には、漠然とした不安を解消しようという心の働きがあるのではないか、と分析されていますね。

 漠然とした不安や屈託を抱えているのは苦痛ですから。たとえ偽りであっても具体的な何かに託して、少しでも楽になりたいと思うものなんですよ。これはカウンセリングにおける言語化の働きにも似ていると思います。心の中にもやもやを抱えているとそれが際限なく膨れ上がってしまいますが、一度言葉にすることで悩みが具体化され、それだけでだいぶ気分が楽になるんです。

 しかし一定数の人たちがなぜ、甲殻類や先の尖ったものを恐れるのかは分からない。幼少期のトラウマがどうした、という因果論では説明できません。恐怖症は心理学や精神医学よりむしろ、文学で取り扱うべき対象ではないかと思います。

――人形の不気味さを描いた古井由吉の短編「人形」、トラウマ級の戦争映画『人間魚雷回天』など、恐怖を扱った小説・映画が多数紹介されています。異色のカルチャーガイドとしても、充実した内容になっていますね。

 印象に残っている作品を思いつくままに取り上げましたが、ホラーはそんなに多くないですね。むしろそれ以外のジャンルを読んでいる時に“流れ弾”のように恐怖が飛んでくることがあって、そういうものの方が心に深く刻まれます。たとえば仁木悦子の短編ミステリの「粘土の犬」、私はあれがすごく怖いんですよ。目の見えない少年の粘土細工が殺人事件を告発するという話で、論理的な謎解きの面白さを狙ったものですが、犯人の視点に立ってみるとあれほど不条理で怖い状況はない。意図せざるところに宿った恐怖、否応なくにじみ出てくる不気味さのようなものに惹かれます。

――中でも「不安感や恐怖心に対する平易で的確な描写力」が図抜けていると評されるのが、『死の棘』で知られる作家・島尾敏雄です。

 私は10代の頃、毎日ひどい不安感に苦しめられていて、自分の気持ちを文章化しようと悪戦苦闘していたんですが、その時一番参考になったのが島尾敏雄の作品でした。『死の棘』に書かれているとおり、島尾の浮気が原因で、妻のミホが精神を患い、家庭内はいつも不安定な状態にあった。しかも島尾は戦時中、特攻隊の隊長でしたから、不安や恐怖と隣り合わせの壮絶な人生ですよね。近年、梯久美子さんの研究によって島尾とミホが一種の共犯関係にあったことが明かされましたが、その歪んだ関係の背後にはやはり強烈な不安感があるので、いずれにせよ呪われた作家と呼ぶしかない。

春日武彦さん=種子貴之撮影

映画や本で味わう「フレンドリーな恐怖」

――ホラーについては「娯楽としての恐怖」という章で詳しく論じられています。「娯楽として提供される恐怖は、もはや恐怖そのものではない」「恐怖におけるカニカマみたいなものだ」との指摘があって、虚を突かれました。

 娯楽として成立している以上、それは恐怖そのものではないんですよ。さっきの定義に戻りますが、本を読んでいて危機を感じることはないわけでしょ。映画を観ながら苦痛を感じたいと思っているわけでもない。そこで与えられる恐怖はまがい物なんです。

 じゃあなぜ私たちがホラーに惹かれるかといえば、限界を超えたものが見たい、という欲望を満たしてくれるからではないでしょうか。極限、臨界、タブーの向こう側。娯楽としての恐怖には、安全圏に身を置きながら、そうしたものを覗き見させてくれる。

――本の中では「フレンドリーな恐怖」とも呼んでいますね。その実例としてあげられているのが、春日さんも大好きだという「アムンゼンの天幕」。南極探検隊が未知の怪物に襲われるという、ジョン・マーティン・リーイの恐怖小説です。

 実にくだらない話ではあるんですよ。文学的価値が高いとはとてもいえないですが、なぜか憎めない。こんな話を真剣に書いている作者の姿を想像すると、胸が温かくなるんです。あんたのこと好きだぜ、と伝えたくなる(笑)。自分が鬱屈しているからかもしれませんが、ホラーとは作家の孤独に思いを馳せ、親密さを味わうものという気がしています。「心弱きときの活性の糧」、これは光人社NF文庫という軍事もの中心の文庫レーベルのキャッチフレーズですが、ホラーにもあてはまるんじゃないでしょうか。

春日武彦さん=種子貴之撮影

恐怖が芸術や哲学を発展させた

――生き埋めが怖い、すぐ隣に「永遠」や「無限」が存在しているのが怖い……などなど春日さんご自身の「恐怖のツボ」も紹介されています。秀逸な恐怖論であると同時に、春日さんの心の奥底にも触れられるエッセイとしても楽しめました。

 恐怖について論じると、必ず「おれはこんなもの怖くない」という人が出てくるんです。恐怖ほど個人差があるものはないですから、すべての恐怖を完全に網羅する本を書くのはおそらく不可能。それは仕方のないことです。だったら自分の経験に寄り添うしかないだろうと思ったんですね。他人には馬鹿馬鹿しく思えたとしても、自分はこれが怖いんだと主張する。そういう本になったとは思います。

 こだわったのは他の人が書かないようなエピソードや感覚を、できるだけ細かく描写すること。停車した電車の下を潜ろうとして轢死した人の話とか、火葬場の死体から胎児が飛び出した怪奇事件とか(笑)。大上段に構えた議論よりも、むしろそういうディテールに力を入れたので、同じような趣味の方には楽しんでもらえるんじゃないでしょうか。

――本書を読んでいると、恐怖こそが人間らしさの証、とも思えてきます。恐怖とは私たちにとってどんな意味を持つとお考えですか。

 10月に『自殺帳』という自殺に関する本を出したんですが、その中で突如として降りかかる自殺は我々が内省を深めるきっかけになる、もしかすると自殺はそのために用意された装置なんじゃないか、ということを書きました。恐怖についても同じようなことを思っています。不意に襲ってくる恐怖やグロテスクによって、人は生きることの意味をあらためて問い直す。芸術にしても哲学にしても、恐怖がなければここまで発展することはなかった。恐怖は生きることに深く関わっているし、必要不可欠なものなのだとも思います。