男性・異性愛中心社会を変革していく鍵に
今年もやはり「母と娘」のテーマが目立ったなあと思う。この10年か15年ぐらい、母と娘、あるいは母になること、ならないことを題材にした本が多く書かれ、よく読まれている。これは日本国内だけに限った現象ではない。
いや、本に限ったことでもない。ハリウッドの大作映画だって、今年(日本公開)は「エブエブ(エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)」も、「バービー」も、物語の中核には母と娘の関係の歪みがあった。それが作品世界を起動させていたのだ。
ノンフィクションでは、イスラエルの母親への意識調査とその分析をまとめたオルナ・ドーナトの『母親になって後悔している』(オルナ・ドーナト、鹿田昌美訳、新潮社)や、少子化が進む韓国発の『ママにはならないことにしました』(チェ・ジウン、オ・ヨンア訳、晶文社)などが、日本でもちょっとした社会現象になった。今月も、アメリカ史を辿りながら過去の女性たちが母親にならなかった理由を分析する『それでも母親になるべきですか』(ペギー・オドネル・へフィントン、鹿田昌美訳、新潮社)の邦訳が刊行。
そして、小説。このところ、英語小説が対象のブッカー賞も、非英語小説が対象の国際ブッカー賞も、候補作・受賞作には、母と娘、あるいは母性をテーマにした作品がざくざくある。
今年の候補作を見ても、『赤い魚の夫婦』などで人気のメキシコ作家グアタルーペ・ネッテルの「Still Born」(未訳)は、母になる・ならないことをめぐって展開し、母性のアンビバレンツを緻密に物語るし、カタルーニャ語作家エヴァ・バルタザールは「ボールダー」で、出産リミットが近づくレズビアンカップルの子づくりの葛藤を書いた。
一方、母と娘の関係自体を語る作品にはなかなか壮絶なものが多い。昨年邦訳が出たアヴニ・ドーシ『母を燃やす』(川副智子訳、早川書房、原作刊行2020年)や、デボラ・レヴィ『ホットミルク』(小澤身和子、新潮社、原作刊行2016年)などは、近年日本でよく書かれている毒母と娘のテーマに近いものだろう。
『母を燃やす』は、中年でアルツハイマーを発症した母と娘の関係が書かれるが、自由恋愛を推進する「グル」を信奉し、常軌を逸した人生に自分を巻き込んできた母を娘はいまも許せない。『ホットミルク』は、原因不明の病で歩けない母と、幼い頃から母をケアし学者の道も諦めた25歳の娘の息詰まる(被)支配関係が描かれている。
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母と娘や母性をテーマにした書籍や物語が多々生まれているのは、男性・異性愛中心社会を変革していくには、その根源にあるマスキュリニティを解体すると同時に、母から娘へと継承されてきたフェミニティやマタニティの本性を見つめなおす必要があるからだろう。母になる・ならないという選択について堀りさげ、母と娘の関係を解きほぐすのは、そのために欠かせない過程だ。とくに2010年代以降は「エブエブ」もなどもそうだが、ここにLGBTQ+の問題を交えた物語が多い。
日本語でも母と娘の小説が一昨年あたりからかなり書かれており、とくに新鋭(当時)作家の作品が強い。母と家族のケアの行き詰まりと精神の破綻寸前までを書ききった宇佐美りんの『かか』と『くるまの娘』(共に河出書房新社)は、デボラ・レヴィの『ホットミルク』に匹敵する渾身作と言えるだろう。
アヴニ・ドージの『母を燃やす』の母娘関係と対照的でもあり通底する部分もあるのが、朝比奈秋の『植物少女』(朝日新聞出版)だ。主人公美桜の母は出産の際の脳出血により植物人間になったため、娘は母とひと言も会話を交わしたことがない。本連載の第4回(23年7月公開)に、市川沙央の『ハンチバック』(文藝春秋)と辺見庸の『月』(角川文庫)という重度障者を語り手とした作品を取りあげ、近現代社会において個人が個人たるゆえんとされる「自己決定権」と「自由意思」について考えた。これらを金科玉条のごとく掲げることで、それを持ち得ない人たちを悪意なく排除してしまう”バグ”を現代社会は構造的に内蔵しているのではないか。『植物少女』はそうした問いに対するひとつの力強い応答となり得ている。
ちなみに、朝比奈は今年三島由紀夫賞、野間文芸新人賞をつづけて受賞しているが、救急病院を舞台にした最新作「受け手のいない祈り」(「文學界」2024年1月号)で、さらに洗練された手腕を見せており、おそらく次回芥川賞の候補にもなるだろう。
もう一作、芥川賞の候補入りを期待したいのが、新潮新人賞でデビューした赤松りかこ「シャーマンと爆弾男」だ(「新潮」2023年11月号)。南米に生まれ幼少時に日本人の母に日本に連れてこられた娘アリチャイ。目の傷跡はイヌワシの蹴爪でえぐられたシャーマンの印と教えられ、いつか河(多摩川)の聖霊の声が聞こえると信じて生きてきた。いまも川の中を歩き、川の魚を獲って食す。
ところが、シャーマンになるための修業と思っていたものは、「虐待」だったし、80歳になり老人ホームで生活する母は歌謡曲を聴き、神聖みのないソーセージを好む俗物になりさがった。そうした気づきとともに、母「族長」が見せていた聖なる物語は瓦解していく。そんな折に彼女はヨハネ四郎と名乗る「爆弾男」に川べりで出会う……。
偽の物語世界を母に押しつけられた娘と、その目覚めと自立の物語である。
黒人のルーツ探しに個人史重ねる
母娘テーマの大作といえば、2019年にブッカー賞を受賞したバーナディン・エヴァリストの『少女、女、ほか』(渡辺佐智江訳、白水社)ははずせないだろう。この度、ついに邦訳が刊行された。劇作家、大学生、投資銀行家、清掃員、教師、インフルエンサー、農場経営者……。イギリスの黒人女性とノンバイナリーの12人が語り手となる大長編である。
12人をつなぐのがアマ・ボンスという50代のレズビアンの劇作家。ロンドン演劇界に蔓延する人種差別のため長らく周縁に追いやられていたが、ついに自作の戯曲『ダホメ王国最後のアマゾン』が自身の演出でかのナショナル・シアターで上演されることになり、プレミアのパーティで12人は交わることになる。
アマはゲイの友だちと子づくりをし、水中出産した娘をヤズと名づけた。自分としてはいまもラディカルなレズビアンりつもりだが、最近の「ポリアモリー(polyamory)」などという語に戸惑ったりする。往時の先進派もいささか時代に乗り遅れているようだ。
親友のドミニクと共に「ブッシュ・ウィメン劇団」を旗揚げし、沈黙させられてきた有色人種の女性たちに声を与えたアマは、中年になって商業主義に魂を売ったような友人たちを批判する。そのわりに、自分が主流中の主流のシアターで劇を上演することに矛盾は感じていないようす。
そういう矛盾はウォークな(意識高い)娘ヤズには見抜かれてしまう。ここにも母親世代の差しだす欺瞞あるいはまやかしを看破する娘がいる。とはいえ、ヤズはヤズで、白人ばかりの大学に進学した末、白人至上主義やナショナリズムに直面して苦しむことになる。
ナイジェリア移民のシングルマザー、バミのもとに生まれたキャロルも母の期待には添わない生き方をする。公営住宅に育ち、荒れた公立学校に通うが、白人文化に同化しようとして母を落胆させるのだ。
12人は葛藤や秘密を抱えながらなんとか生きている。差別や偏見から自由であろうとしているが、時や場所が変わればプラスはマイナスにひっくり返る。作中でも、かつて第2波フェミニズムで革新的フェミニストだった白人女性教師が、いまでは有色人種や性的少数者の「インターセクショナリティ」(マイノリティ性が重なること)を理解していない差別者となってしまう。
語り手たちのルーツは奴隷貿易の中心地だったガーナ、部族間の紛争が激しいナイジェリア、カリブ諸島など様々だが、そこには人間が人間を売り買いしていた暗黒の歴史がある。終盤で、ある意外な「帰郷」が遂げられる。そのとき読者もある偏見から解き放されるだろう。
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『少女、女、ほか』は母と娘の物語であると同時に、それ以上に、アフリカから連れだされディアスポラとなった黒人のルーツをたどり、故郷へ帰還する旅でもある。この傑作の邦訳が刊行されたのとほぼ同時期に、サイディヤ・ハートマンのブラックスタディーズの紀行書『母を失うこと 大西洋奴隷行路をたどる旅』(榎本空訳、晶文社)の邦訳も刊行されたのでぜひ紹介したい。
ハートマン自身が奴隷の末裔に当たるという。大西洋奴隷貿易時代(16世紀~19世紀)には、奴隷制と植民地政策によって、一説では1億4,000万人以上の人びとがアフリカの故郷を追われた。著者は、かつて「奴隷海岸」と呼ばれた一帯にあるガーナを旅することで、故郷すなわち「母」を失った者として生きることの意味と、「奴隷制の余生」について思索するつもりでこの地に降り立った。
しかしそこには、奴隷制を語ることを避け、なるべくなら忘れようとする人びとの意志があった。例えば著名な詩人マヤ・アンジェロウのガーナ滞在回顧録では、奴隷売買の地の記述は避けられているという。
ハートマンはその「語り得ぬ不在」と、アフリカ大陸とアメリカ大陸の歴史の巨大な断裂に向きあおうする。それは、本書が奴隷とその末裔の歴史に関するだけの物語ではないからだ。ハートマンの母と娘の個人史が重ねられている。
ハートマンは大学2年のとき、母につけられた「ヴァレリー」という欧風のきらきらした名前を捨て、スワヒリ語で「助け手」を意味するサイディヤという名を選んだ。彼女もまた母に与えられたまやかしの歴史を拒んだ娘だったのだ。
『少女、女、ほか』と『母を失うこと』という、原書では10数年を隔てて刊行された2冊を、日本語訳で併せて読む機会をもてることは奇跡的な幸運と言えるだろう。