これまで何軒もの本屋を訪ねてきたが、毎回「なぜその名前にしたのですか?」と聞いている。店主の名前にちなんでいたり、好きなものや目指すものと紐づいていたり、もっとゆるい理由だったりとすべての店に違う理由があった。
横浜にある「本屋 象の旅」も、どうしてそんな名前にしたのかを知りたくて、訪ねることを決めた。が、ホームページであっさりと、
「店名の『象の旅』は、ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴ氏の著作より拝借しました」
とタネが明かされている。
ならばどうして、この本を手に取ったのだろう? さらに知りたい思いを抱えながら、横浜市営地下鉄の阪東橋駅を降りる。確か従姉妹の家がこの辺にあるようだけど、もうずいぶんご無沙汰してるなあ。などと考えながら商店街を横目に5分程度歩くと、ミニスーパー隣の大きく取られた窓の奥に、本が並んでいるのが見えた。
24年間勤めた会社を50目前で退職
「『象の旅』はたまたま本屋で目にして、店がオープンする1年前の2021年10月に読みました」
そう語った店主の加茂和弘さんは、現在52歳。千葉県で生まれ育ち、大学を卒業した後は不動産関係の会社に就職した。その会社で24年間、サラリーマン生活を続けていたという。仕事や職場環境に、とくに不満もなかった。
でも49歳になった2019年、会社を辞めた。同じ就職氷河期第一世代としては、もう少しいれば定年なのに、その前に安定した職を辞すのはもったいないと少し思ってしまった。
「もともと50歳ぐらいで、何か別のことをやりたいなと思っていたんです。定年を待っていると今よりも体力的にきつくなるので、良いタイミングだなと思って」
しかし辞めた直後にコロナ禍に見舞われ、構想を練ってはいたものの身動きできない。新刊書店だけでやっていくのは厳しいことは分かっていたが、本が好きで本に関係する仕事をしようと決めていたし、もう会社を辞めている。だから後戻りはしなかった。
「当初は本プラス何かがある店にしたくて、ブックカフェの計画もありました。でもこの物件が飲食NGだったので、本だけでやっていこうと。古本を扱うことも考えましたが、値付けの難しさもあるので新刊専門にしました」
本屋の先輩たちを訪ねて教えを受ける
書店員経験はないけれど、これまでにたくさんの先輩たちが残したものがある。Titleの辻山良雄さんやB&Bの内沼晋太郎さんの著作を参考にするかたわら、同じ神奈川県内で本屋を手掛けるポルベニールブックストアの金野典彦さんや、大田区は梅屋敷にある葉々社の小谷輝之さんを訪ね、直接教えてもらう機会を作った。
退職金を開業資金に充て、本牧の自宅から電車に乗らずに通える場所に店を作りたい。探し当てたのが、かつて魚屋がテナントに入っていた現在の場所だった。加茂さんいわく、すぐ近くに大学病院と区役所があるので、用事がてら立ち寄るハマっ子も多いそうだ。
「元町は条件と合わず、本牧は街歩きするのが難しい場所だし、ここなら自転車で来られるなと。阪東橋はこれまで馴染みのない街でしたが、病院と区役所が近いし、周辺にあまり本屋さんがなくて。それでここに決めました」
広さ約10坪、カウンターやバックヤードを差し引き9坪の店内を見渡すと、絵本や人文、小説などが並んでいる。子どもの文化普及協会と八木書店、弘正堂図書販売とトランスビュー&出版社との直取引で本を仕入れているが、大手版元の本もおさえていて、個人書店としては幅広い品揃えになっている印象を受けた。通りからよく見える場所には絵本をはじめ、ビジュアルが目をひく本が置かれている。
「ざっくりとジャンルを決めて仕入れているのですが、入口からすぐの場所は食と旅、そして子供向きの本を並べています。人文書は動きが鈍いのですが、本屋であることを考えるとやはり扱いたい。そこにノンフィクションやフィクション、新書や歴史関係の本を織り交ぜています。現在の在庫は約3500冊程度ですが、実は仕入れた本のほとんどを並べていて。棚にしまってあるのは、本当にわずかなんですよね」
入口の左側にあるレジカウンター脇も大きなガラスサッシになっているが、これだと通りから自分が見えてしまう。常に気が抜けないし緊張しないのだろうか?
「外が見えると気分がいいし、中がよくわからないと小さい店は入りにくいものなので、逆に通りから見える方がいいと思います。本棚側は陽が射す時間は、ロールスクリーンを下げることもありますが、北側に面していて冬は西日が入らないので、本の日焼けも心配ないですし」
壁一面の本棚は、福岡県にルーツを持つ三重のイキクッカストアという、木製システム家具店のものだ。本は重いから棚を頑丈に作らないと、いつしかヒビが入ったり歪んでしまったりする。だから棚が分厚くなってしまうことも多々あるが、そこは匠の技で薄さと強度が共存するのが特徴だという。
象のままならない状況に共鳴
平台にはもちろん、『象の旅』も鎮座している。ホームページでも「著者の最晩年に書かれたこの作品は、なんとも味わい深く大変おもしろいのですが、なによりもそのタイトルの響きに惹かれました。なにかとままならない人生を表しているように思えてなりません。先の見えない時代でも、ゆったりと、歩は進めていくような、そんな言葉にできない思いを込めて、お店の名にいたしました」と紹介しているし、実際店の名前になっているので、手に取る人は多い。
でも「これだ!」という強い気持ちというより、店の名前が決まらないと何も進まない中で、なんとなく選んだのだと明かした。
「象ってサーカスやどうぶつ園で見世物にされたり、遠い国に連れていかれたりと人間の都合に振り回されることが多いですよね。その『自分の意志では動けないままならなさ』が、コロナに抑圧されている自分の状況に共鳴したんです。でも、一番影響を受けた本かと言われたら、実はそうでもなくて(苦笑)」
むしろ今はこの本かなと加茂さんが差し出したのは、韓国の詩人ハン・ジョンウォンが日々の散策から言葉を紡いだ『詩と散策』(書肆侃侃房) だった。せっかくなので私も読んでみようと、1冊購入した。
2022年11月1日のオープンから、ちょうど1年経った2023年11月に訪問したのだけれど、加茂さんにとってこの1年はどんな時間だったのだろう?
「とりあえず何とかやっていけました。本当に楽しいと思う瞬間はたくさんありますが、集客や仕入れなど、まだまだ変える余地のある課題がいくつもあります。でもわざわざ目指して来て下さる方もいるので、とにかく続けていくことを目標にしています」
そんな話をしているとお客さんが1人、また1人とガラス戸をスライドするので、店を後にすることにした。少し商店街をぶらぶらしたのち再び店の前を通ると、加茂さんが窓ガラスを磨いていた。その真剣な眼差しを目にして、声をかけるのをやめた。
帰りの横浜市営地下鉄内で『詩と散策』を開く。するとイランの詩人フォルーグ・ファッロフザードの『窓』という詩をテーマにしたエッセイが目に入った。ハン・ジョンウォンが子どもの頃、家を玄関ではなく窓から抜け出して知人のオンニ(お姉さん)と冒険に出かけたこと、窓を越えられなくなった時に子ども時代が終わったことに触れながら、 ファッロフザードにも自分にも必要だった窓について「それが想像であり、理解であり、必ず一度は鏡になるからかもしれない。それらを前にしたら、ただ沈黙するしかない」と締めくくっていた。
象の旅のあの窓も、訪れる人だけでなく加茂さんにも想像と理解をもたらし、そして鏡となっているのかもしれない。そんな窓を丁寧に磨く店主がいる本屋は、きっと幸せな空間であるに違いない。店名の謎が解けた以上に、「緊張しませんか?」とばかり思っていた窓そのものに、強く惹かれる思いだった。
(文・写真:朴順梨)
加茂さんが選ぶ、窓の向こうに世界が映る3冊
●『詩と散策』ハン・ジョンウォン、橋本智保(書肆侃侃房)
韓国の詩人、ハン・ジョンウォンさんが、詩を読み、散策をしながら、日々の生活をつづ
ったエッセイです。著者の、ものごとに対するまなざしのやさしさに触れると、読んでい
るこちらもやさしくなれるような気がします。とくに寒い時期に読みたい一冊です。
●『急に具合が悪くなる』宮野真生子、磯野真穂(晶文社)
公開を前提とした「往復書簡」は、もっとも読み手に気持ちが伝わるかたちのひとつだと
思うのですが、この本は、わたしにとってその最高峰です。哲学者と人類学者という、こ
とばのプロによる魂のぶつけあい。お読みでなければぜひ、という一冊です。
●『ガザに地下鉄が走る日』岡真理(みすず書房)
いまだ予断を許さない状況のつづくパレスチナ情勢ですが、問題の根は深く、けして今に
はじまったことではありません。苦境にある人々にとっていちばんつらいのは、世界から
関心を持たれないこと。すこしでも背景を知るために、この一冊をおすすめいたします。