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坂本拓弥さん「体育がきらい」インタビュー スポーツだけではなく、自分の「からだ」に気づく場に

坂本拓弥さん=本人提供、伊藤鴻児撮影

「きらい」はコントロールできない

――学校の体育ってきらいだったなぁと思い、この本を手に取ったんですが、最初に「体育」なんて好きにならなくていい、と書いていて安心しました。なぜそのようなメッセージを最初に書いたのでしょうか。

 いくつか理由がありますが、まず、好き/きらいの気持ちはコントロールできないと私が思っているからです。それに体育は他の教科と比べても「好き」が強調されがちな教科で、そこに違和感があったからだと思います。

 でも僕は、好きかきらいかという基準は、あまり重要ではないと思っています。もちろん、好きになってもらえればそれにこしたことはありませんが、それは最優先事項ではない。例えば算数や国語では「足し算できなくていいよ」「ひらがな覚えなくていいよ」とは言われません。好き嫌いではなく、身につけてほしい事柄を先生は児童生徒に教えます。体育でも同じように、自分のからだに対する見方や考え方を身につけて欲しいと思っています。

――他の教科と比べて、「好き」が体育で強調されがちなのは、なぜですか。

 ひとつの大きな理由は、受験科目である国語・数学・理科・社会・英語とは制度的な位置づけが違うためでしょう。例えば今、高校進学率は97.8%なので、中学での主要科目について生徒たちは好きかどうかとは関係なく、それなりに取り組んでいます。でも体育はそうではないからこそ、プラスアルファの「好き」を強調しないといけないと体育の先生たちは思っている。美術や音楽といった教科も似たような状況にあるかもしれません。

――体育の先生についてもお聞きしたいです。体育がきらいになる理由のひとつに先生の存在があると思います。

 私は体育の先生なので、これには忸怩たる思いがあります。確かに、体育の先生がきらいで、体育がきらいになった人は多いと思います。ただし、その先生について考えてみると、大きく分けて二つあると思っています。

 まず「空回り」してしまうタイプ。体育が好きなため、体育がきらいな生徒の気持ちを理解できないことが多いと言えます。だから水泳で怖がっている生徒に、「大丈夫! 怖がらずやってみよう!」と悪気なく言ってしまったり。好きを押し付けられて嫌だなぁと思う生徒もいるかもしれません。

 そして真逆の「ユルい」タイプ。授業では出席だけ確認して、「あとは自分たちで」と丸投げして職員室に帰るなど、トンデモない先生の話は残念ながら少なからず聞きます。見ているだけで、技術を教えてくれない先生の話も聞きますが、そのような先生は専門家として仕事をしていないと言えます。

 ただ、ここにはひとつのジレンマもあるんです。過去の詰め込み型教育の反省として、今の教育では児童生徒主体のアクティブラーニングが重視されている。そうすると積極的に教えたいと思っていても、すべて指示するのではなく、子どもたちの自主的な試行錯誤を見守ることも大切になります。でも一方で「ちゃんと教えてもらえない」と思う子もいるわけです。

 どこまで先生が指導して、どこまで児童生徒に任せるのか。答えがあるわけではなく、その時々で探っていくしかありません。体育ぎらいの要因を考えてみると、教員の側の問題もあるのですが、そもそも完全には解決できない要因があることも事実です。

 さらに、実技ならではの難しさもあります。体育は受験科目などと比べると問題集に答えが書いているわけでないので、児童生徒が「正解」に達することができないまま終わることもあります。それゆえに「できない」「わからない」感覚が残りやすいのではないでしょうか。そうした、身体的な技能や感覚が強調される時に生じる難しさは、僕自身の研究テーマでもあります。

恥ずかしさを主役にしない

――身体が前面に出る難しさとして、本の中ではいわゆる「公開処刑」という言葉が出てきました。運動ができない自分をみんなの前で見られてしまい、傷ついてしまうと。

 すごい言葉ですよね。でも気持ちはよく分かります。私は音痴なので、音楽の授業でひとりずつ歌わされた時はまさに地獄でした。体育の授業でも、それを経験した人が多くいます。

――でも上達するには失敗することも必要ですよね。どうやったら「公開処刑」が起きず、体育が安全に失敗できる場になるのでしょうか。スポーツは基本的にミスするものなので、うまくやれば安全に失敗できるいい機会にもなるとは思うんです。

 そもそも学校自体がそういう場所のはずなんです。失敗しても許される場所。そして教員はその失敗を見守る。技術の指導や知識の伝授と同じくらい、場合によってはそれ以上に重要なこと、教育のベースはそこにあるはずです。

 ただし難しいのは、そうした「恥ずかしさ」の感情が人間にとって重要な感情でもあることです。常識やルールやマナーを守って行動するためには、一定の「恥ずかしさ」が必要です。だからこそ、むしろスポーツや体育のような身体を他者に晒す場所で、思いっきり失敗できる場を子どもたちに用意する必要がある。それができる可能性はあると思いますし、私自身もそういう体育の授業が面白いと考えています。

――スポーツは失敗を学べるいい機会になる可能性があると。

 ただ、スポーツをやってきた人が失敗に寛容かと言われると、そうとも限りません。僕が今教えている筑波大学では、オリンピックに出場するようなトップクラスの学生もいます。ただ、彼らが自分の専門ではない競技、つまり自分ができないことを面白がってやれるかというと、必ずしもそうではないと思います。面白がってやれる人、やれない人に二分されるような印象があります。

 自分の得意なことしかやらない人は、スポーツに限らず少なくありません。特にスポーツでは、たとえうまくいかなくても、失敗しても、その過程や試行錯誤自体が面白いという価値観を持たないまま育ってきた人も多い気がします。それは、不幸なことだと思います。

 だから僕は自分が教える学生とは、例えば一緒にゴルフなんかをやってみるんです。ゴルフはだいたいの人が初心者なので、当然うまくいかない。その時に、自分が出来ないことをどう面白がれるのか。体育の先生は、自分のできないことを面白がれる人の方がいいし、それを授業で伝えられた方がいいと思います。

 できないから恥ずかしいのではない。むしろできないからこそ、どうやったらできるのか、試行錯誤する過程が面白いはずです。そうした考えを持つことができれば、できない時にも「恥ずかしさ」が主役にならずに済むのではないでしょうか。

 もちろん、集団の中で一人だけできないと、やっぱり恥ずかしいですよね。だから体育の授業では、先生も含めて、みんなができない状況を意図的につくってみることが大事だと考えています。みんなが失敗しているからこそ、自分の失敗を恥ずかしいものだと感じないようになるのだと思います。

――授業内ではどのような実践があり得るのでしょうか。

 競技によってさまざまな方法があると思います。例えばバスケットボールで、力を抜いてドリブルをしてみる。スピード勝負だと当然バスケ部が速いですが、力を抜いてドリブルするのは意外と初心者の方が上手だったりする。

 そうやって競技の枠組みをずらして、いろんな運動をやってみる。もちろん試合には試合の面白さがありますが、そのための練習だけではなく、からだや運動そのものの面白さも味わえる授業を僕はイメージしています。

 そこが競技スポーツと体育の違う点です。競技スポーツは、点数を入れること、速く走ること、勝つことが目的です。スポーツをやる上で、その前提は崩せません。でも体育の目的はそうではないはずです。

坂本拓弥さん

体育よりスポーツの時代?

――体育とスポーツの目的は違うのでしょうか?

 体育(physical education)は、簡単に言えば「身体に関する教育」です。一方でスポーツはひとつの文化であって、必ずしも身体を育てるために創られたものではない。今は「体育=スポーツ」のイメージが強いですし、実際に体育の先生にもスポーツ経験者が多い。しかし体育の授業において、スポーツはあくまでひとつの教材に過ぎません。体育は子どもたちの身体のためにあります。

 ですが、世界的な流れとして、体育はスポーツに置き換わりつつあります。体育には、古臭くて時代遅れのようなイメージがあるようです。確かに、日本では明治期に「富国強兵」政策の一環として、強い国民を育てる役割などを体育が担っていたこともありました。そこに連なるイメージもあり、印象が悪いのかもしれません。実際に「体育の日」が「スポーツの日」になりましたし、2024年から「国民体育大会」(国体)も「国民スポーツ大会」(国スポ)に名称が変更されます。

 僕はその流れには抵抗したい。体育が、単にスポーツをやる教科になるのは間違っている。現代において「身体に関する教育」でなにができるのか、僕たち体育の専門家がまじめに考えて、示さなければいけないと思います。体育で目指すべき身体は、スポーツを上手にする身体だけではないと思うからです。

――スポーツではなく、体育だからこそ目指せるものがあると。

 そう思います。でも、今の体育のままでいいとは思っていません。厳しい言い方ですが、問題もいろいろとあると思います。例えば、平成29年に改訂された保健体育の学習指導要領によると、体育の指導内容は、「知識および技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」と記されています。

 他の教科を見ても、指導の内容として「人間性」と書いてあるのは体育だけです。それを誇る向きもあるようですが、僕は本当かなと思う。そもそもそこで想定されている人間性って、一体何なのか? さまざまな答えが考えられますが、その理解のされ方次第では、とても危うい気がしています。

――人間性を育成できると考えている根拠はどこにあるのでしょう。

 正直なところ僕にも分かりません。古くは、肉体を鍛えれば人間性も鍛えられるのだという価値観があったかもしれません。今そこまで単純に考えている人はいないでしょうが、体育に限らずスポーツの指導や研究をしている人を見ていると、どこかで素朴に運動やスポーツで人間性が高まると思っているのではないかと感じることもあります。

 特にスポーツに限って言うと、スポーツは人を育てるとは限りません。それは、体育やスポーツの関係者であればよく知っているはずです。実際に成長した人がいるのは事実ですが、それでもやはり、「育てるかもしれない」としか言えないと思います。競技力が優秀なスポーツ選手が集う現場でも、暴力行為や差別、ドーピングなどの不正行為はあとを絶ちません。

 そのような現実を、スポーツが好きな人は直視したくないかもしれません。しかし、そうではいけないと思います。例えば、かつて社会学者のエリアスとダニングは、スポーツは「飛び地」であると表現しました。人間の歴史が暴力を飼いならしながら発展してきた中で、暴力はできるだけ見えないように工夫され、国家や法律、ルールができました。そのようなある面では息苦しい社会の中で、スポーツは身体を思う存分動かしたり、興奮して叫んだりできる「飛び地」なのだと。言ってみれば、僕らの暴力性がうまく処理されている場所なんです。

 スポーツには「非社会的な魅力」があります。つまり、それは良くも悪くも、ものすごく特殊な状況に生まれるものです。スポーツの関係者はそのことを分かっているはずなのに、そのことには触れずに、「スポーツは人を育てる」とか「絆を育む」とか、オリンピックに至っては「世界平和への貢献」という美しい面だけを謳っている。そのような現実を直視しない姿勢をとり続けると、スポーツや体育の良いところが見えなくなってしまい、その結果、子どもたちに本当に伝えるべきことも伝えられなくなると思います。

坂本拓弥『体育がきらい』(ちくまプリマー新書)

「賢いからだ」を考える

――「体育で目指すべき身体は、スポーツを上手にする身体だけではない」とおっしゃっていましたが、ではどのような在り方があるのでしょうか。

 本書の中では、これまでの体育やスポーツが大事にしてきたものとは違う軸を示したいと考え、「賢いからだ」という表現を用いました。

 その「賢さ」は、周りの人やモノに合わせて適切に動けることだと言えます。そこにはスポーツ的な運動の技能も含まれてはいますが、それは私たちのからだの「賢さ」のひとつでしかありません。

 例えば、意図的にからだの力を抜くこと。これは、スポーツを長くやっていた人も案外苦手だったりします。競技で強くなるためには、耐えなければいけないことが多くあります。そのような時、からだがキツイと言っているのを無視することが必要になります。でも、強いことは鈍いことでもある。そもそも自分のからだに力が入っていることに気づけていなかったりもする。

 対人関係において人当たりの柔らかい人は、からだの力が適切に抜けている人でもあります。自分のからだや他人のからだと、長く「良い」加減で付き合っていくために、力を抜くことは大切なスキルです。

 もし学校の体育やスポーツがきらいでも、自分のからだのことはきらいにならないでほしい。なぜなら、それは自分をきらいにならないことと同義であり、自分という唯一無二の存在をその土台のところで肯定することになるからです。そう願って、『体育がきらい』を書きました。少しでも思い当たる方はぜひ、手に取ってみてほしいです。