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争いの絶えぬ世界で 痛みに触れ、他者に“溶ける” 古川日出男〈朝日新聞文芸時評23年12月〉

絵・黒田潔

 どこかでつねに戦争が起きている時代に小説を読んでいったい何を考えるのか、感じるのか? たとえばメディアは「戦争の原因」を分析する。人種の違いや宗教の違い、その他。だが民族も言語もまるっきり同じ者たちもしばしば暴力的に争う。日本の歴史を顧みれば、たとえば八百数十年前には源平合戦(治承・寿永の乱)があった。彼らは異民族で、異言語を話していたのか? 否だ。

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 誰かのことを理解するとは、誰かに“溶ける”ような様態でもある。他者の痛みを想像し、共感するとは、他者に“溶ける”ことでもあるのだと言ったら通じるだろうか? 滝口悠生「テレパシーの手」(「新潮」一月号)は九歳の少女が主人公で、この子にはテレパシー能力がある。が、肝となる部分は、テレパシーは「それを感受する能力を持った人間でなければ、通用しない」という点で、大人たちにはほぼ通じない。そうであるのならば、それは大人たちの認識する“テレパシー”とは別物なのであって、たとえば子供たちには大人がクリアに分析可能な不安とは異なる種類の不安がある。その「なんだかわからない不安」が誰かに共感される時、じつはテレパシーの通信は成立している。ある一軒の家があって、その家に、曾祖父や祖母の存在、気配、そうしたものが残ると感受する主人公の母親がいる時、また、その母親を理解している娘(=主人公)が存在する時、いわば家はテレパシー能力を持っている。そして、テレパシー能力とは無縁の他者が、何かを理解する“手”を主人公の肩に触れさせる時、そこにも非凡な力が宿るのだ。

 この滝口作品の凄(すご)みに通じる力が、瀬尾夏美「頬をなぞる」(「ことばと」七号)にもある。八十歳ぐらいの“わたし”が現代にいる、と思っていたら、その“わたし”の語りは一九九五年に跳んで、同時期の“わたし”の娘の語りに接がれて、また“わたし”に戻り、彼女の育ての母の語りを聞き書きした他者の、その娘――現代の大学生――の語りにも接続して、と、ここにあるのは語りの連鎖、世代の連鎖である。そして触れてはいけない誰かの傷に真摯(しんし)に触れようとする時、他者は「身内」化するのだとわかる。作品の背景には広島と原爆投下が、またウクライナでの戦争がある。

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 テレパシーでは他者の内側には入れないとの徹底した前提のもと、輪郭の明瞭な人物たちが、まさに“小説家の眼差(まなざ)し”でもって描出されるのは桜木紫乃「情熱」(「すばる」一月号)で、ここでは源平最後の合戦の地・壇ノ浦が要となる。作者は土地の輪郭も際立たせ、北海道と門司・下関が対比されて、だからこそ「人の内側に入ることの難しさ」が切実に、リアルに描かれて響く。

 一つの作品内に三つの場所があり三人の視点人物がいたら、その輪郭はどうなるのだろうか? 柴崎友香『続きと始まり』(集英社)はその試みの本で、コロナ禍の日本社会のドキュメントにも見えるが、むしろ時間や人びとの心情のその輪郭が“溶ける”ことはありうるのだ、との証明を行っている。大震災は一つだけではない、関西のそれだけでも東日本のそれだけでもない、ということや、戦争はぜんぜん一つだけではありえない、ということを、頭で理解させるというよりも体感させる。これはつまり、時代と土地のテレパシーだ。読者はその通信のただなかに置かれる。そうした通信を傍受して、きっと震える。

 レイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(安藤哲行訳、インスクリプト)を読む体験は、異なる時代と異なる文化に生きる、そうした文脈での「真の他者」の痛みに触れることで、共振して“溶ける”行為ともなる。キューバの近現代史を知らずとも、そこに独裁政権があり、そうした政治状況下で生きることの苦しみがあり、しかし普遍的な人間の欲求、たとえば幼い少年がこの世界と「溶けたい」と願ったり、それゆえに他者の反発も招けば、愛も得るという諸相がスッと理解される。驚いてしまうのはアレナスの持っている文体の音楽性で、一九五〇年代後半のキューバ島から時間的にも空間的にも隔たった日本の読者にも、その声、その語りかける律動は届いてしまう。ある種「奇抜だ」と捉えられるだろうレイアウトの視覚性も切実な“声”として響いてくる。序章が即、終章でもあるという構造は、「終わりと始まり……」と読者につぶやかせるだろう。=朝日新聞2023年12月29日掲載