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宮島未奈「成瀬は信じた道をいく」 生きているだけで世界を幸せにする唯一無二の主人公 書評家・杉江松恋「日出る処のニューヒット」(第10回)

©GettyImages

おもしろさに驚いたデビュー作

 ついにこの日が来たか。
 宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)を今月はお薦めしたい。
『成瀬は信じた道をいく』が出たからには取り上げざるをえない。現在進行形のシリーズで、成瀬あかり以上の魅力を備えた主人公の小説は存在しないからだ。主人公の造形も、それを読者に印象付ける作者の技能も際立っている。

 本書は2023年3月に刊行された宮島のデビュー作、『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)の続篇である。『天下』は6話を収録した連作短篇集で、巻頭の「ありがとう西武大津店」は、第20回「女による女のためのR-18文学賞」大賞、読者賞、友近賞をトリプル受賞した。『小説新潮』2021年5月号に掲載されたのを私は読んだのだが、あまりのおもしろさに魂が抜けるほどに驚いた。数々の才能を輩出してきた新人賞なのである程度心の準備はできていたが、その予想をはるかに上回る出来だったのだ。

 滋賀県大津市で唯一のデパートである西武百貨店大津店が、8月31日に営業を終了することが発表される。大津市に住む中学2年生の成瀬あかりは、同じマンションに住む同級生の島崎みゆきに「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」と告げる。これが「ありがとう西武大津店」の出だしだ。西武大津店では毎日、地元びわテレの「ぐるりんワイド」中継が行われる。夏休みの間毎日、それに映りこもうというのである。中継初日である8月3日、成瀬はなぜか西武ライオンズのユニフォームを着て現れる。

 常人には理解しがたい言動で周囲の者を呆気にとらせる人物が主役となる物語である。「ありがとう西武大津店」では「ぐるりんワイド」中継に毎日登場するうちに視聴者が成瀬を認識するようになり、彼女を巡る状況が変化し始める。変人の行動が周囲を活性化するというのは、こうした物語の定番だ。その中で本人は何も変わらず、淡々と西武ライオンズのユニフォームを着てテレビカメラの前に立ち続ける。友人である島崎の視点からそれを観察する、という視点も巧い。初めはただ呆れて見ているだけだった島崎の心が次第に成瀬の方に接近していく。もちろん島崎は読者の代弁者だから、ページをめくっている者の心もぐいぐい成瀬に引っ張られていく。巧い巧い。成瀬の奇行によって初めから鷲掴みにされている心が、西武大津店営業最終日に彼女がぽっと口にする言葉でついに射抜かれる。なんてことをしてくれるのだ、と読み終わって思った。

続編ではびわ湖大津観光大使に

 どう考えても変人としか思えない成瀬あかりが、いつの間にか大事で大事で仕方ない存在になってしまうのである。続篇である『成瀬は信じた道をいく』には5篇が収められている。その中の「コンビーフはうまい」は、びわ湖大津観光大使になった成瀬の物語だ。言い忘れたが少しずつ成瀬は年を重ねており、初登場時には中学2年生だったのが、本作中で京都大学理学部に合格し、無事に勉学に励む日々を送っている。その入試が終わって合格発表を待つ間、観光大使に応募して見事に選ばれ、1年間を地元広報に捧げることになったのだ。地元愛のかたまりである成瀬にとって、まさにうってつけの任務である。
「コンビーフはうまい」の視点人物は、成瀬と同時に観光大使に選ばれた、1歳上の篠原かれんという女性だ。篠原は母も祖母も同じ観光大使を務めたことがあり、3代目の彼女がそれになることは生まれた時からの決定事項のようなものだった。いわば観光大使の申し子のような存在なのだが、そんな彼女を前に成瀬は、取材で応募の動機を問われ「わたし以上の適任者はいないと思ったからだ」と言い放つ。そう、それが成瀬。最初はそんな彼女に対し、反感に近い気持ちを抱いた篠原だったが、我が道を行く態度を見るうち、成瀬に心を惹かれるようになっていく。

 本篇は、女性の生き方について考えさせられる内容にもなっている。祖母は観光大使、母も観光大使、そして自分も、と定められたレールの上をひたすら走るだけだった篠原は、ではその務めを果たしたあとの自分はどうすればいいのだろう、そもそも自分とはどういう存在だったのだろうか、と思い悩むようになる。女らしさ、という言葉があり、そこから外れれば、女だてらに、とか、女のくせに、と言われることは珍しくない。そうした、不可視の檻に自分があらかじめ入れられていることに、篠原も気づいたのだ。その一方で成瀬は、どこまでもおのれの思いだけに忠実に生きている。本書の題名が『成瀬は信じた道をいく』であるのは、篠原のように、選んだ道が本当に自ら選んだものなのだろうか、と迷っている人に、こうした生き方もある、と伝えるためでもある。

メアリー・ポピンズを思い出す

 成瀬は主人公なのだが、触媒でもある。みんな成瀬を通じて、自分を発見するのだ。各篇ごとに視点人物が交代しながら、それぞれの目に映った成瀬を語るという小説で、視線の集積により、成瀬あかり像の輪郭がくっきりと描かれていく。そうやって第三者の見聞した内容で人物を語っていくというのは天才的な主人公を描く物語の定石なのだが、驚いたのは『天下』の最終話「ときめき江州音頭」で成瀬自身が視点人物になっていることである。天才の内面に入ってその気持ちを代弁するということをデビュー作で作者はやってのけているわけで、並々ならぬ膂力を感じさせる。

『成瀬は信じた道を行く』では、周辺から主人公を語るという技法がさらに進んで、意外な人々が語り手になる。成瀬が島崎と組んだ漫才コンビ・ゼゼカラの熱烈なファンである小学生の北川みらい、成瀬が京都大学に合格したら家を出て一人暮らしを初めてしまうのではないかと悩む父親・慶彦、成瀬がアルバイトする平和堂フレンドマート大津打出浜店でお客様の声を書くことだけが生きがいのクレーマー・呉間言実、前出の篠原かれんと来て、最終話ではこの人しかいない、という前作からの登場人物が語り手を務め、さらに各話の登場人物が勢ぞろいして花を添える。おお、グランドホテル形式ではないか。成瀬について語る声が行間に満ちて、彼女への興味でページから目が離せなくなる。
 成瀬の物語を読んでいると、P・L・トラヴァースの創造した主人公、メアリー・ポピンズを思い出す。そこにいるだけで日常に色とりどりの花を咲かせ、生きているのが楽しくて仕方ないものに変えてしまう。そんな魔法を、成瀬あかりも使うのだ。まっすぐに生きていくということは、この世の中ではとても難しい。どうしても曲がってしまったり、歩くのをやめてしまったりするからだ。それをやってのける成瀬は、生きているだけで世界を幸せにする唯一無二の主人公である。

〈日出る処のニューヒット〉は、次期直木賞候補にふさわしい作品を対象とする連載だ。過去には、第170回を受賞した『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)と『ともぐい』(新潮社)も取り上げた。万城目学、河﨑秋子のお二人にはお祝い申し上げる。対象となる作品の選び方には2種類がある。これは直木賞候補になりそうだな、というのと、直木賞はこれを候補にすべきだ、と考える場合の2つだ。『成瀬は信じた道をいく』は後者である。これだけの個性を持ち、同時代の読者を勇気づける力のある主人公の小説を無視してはいけないのではないか。作者のためにではなく、直木賞のために言うのである。これこそが現代に求められる大衆小説というものだと思う。成瀬にあやかれ。力を貸してもらえ。