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「日本精神史 近代篇」(上・下) 時代超えて届く知性のかたち 朝日新聞書評から 

評者: 有田哲文 / 朝⽇新聞掲載:2024年01月27日
日本精神史 近代篇上 (講談社選書メチエ le livre) 著者:長谷川 宏 出版社:講談社 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784065235218
発売⽇: 2023/10/12
サイズ: 19cm/544p

日本精神史 近代篇下 (講談社選書メチエ le livre) 著者:長谷川 宏 出版社:講談社 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784065333327
発売⽇: 2023/10/12
サイズ: 19cm/499p

「日本精神史 近代篇」(上・下) 長谷川宏

 遠い過去は外国だと考えたほうがいい。何かで読んだそんな警句が心に残っている。ものの見方、感じ方は時代によって異なり、現代の尺度で考えると十分に理解できない。たかだか150年しかない日本近代の歴史でも同じことが言えると、本書で痛感した。
 明治以降の精神の変遷に分け入る。そんな本の冒頭に著者が置いたのは、思想家でも文学者でもなく、画家の高橋由一(ゆいち)である。高橋は、絵画が「国家を治める助けとなる」と述べたが、一体それはどういうことか。著者は教科書にも載る「鮭」などの筆遣いを手がかりに、リアリズムこそが、絵画から文学、国家経営までを貫く時代の精神だったことに行き着く。
 坪内逍遥が提唱した「写実」、正岡子規の「写生」。そして岩倉遣欧使節団による海外視察記録『米欧回覧実記』にもリアリズムは色濃く表れており、鉄道、市場、銀行など新奇な事物を生き生きと描き出した。固定観念を排し、ありのままにものごとを見て、ありのままに伝える。そんな知性のかたちがいかに新しかったか。
 「個」の発見も、近代の大きな出来事だった。村や家などの共同体に包み込まれてきた人間が、自分なりの思考や感情、欲求があることに気づき、そこに価値を見いだしていく。しかし個を大切にしようとすると、今度は社会秩序や国家との間に抜き差しならない矛盾や対立が生まれる。
 著者によれば、そんな事態に十分目を凝らすことができなかったのが福沢諭吉だった。あれほど人間の平等を強調した福沢だが、やがて国権拡大の旗振り役となっていく。一方で森鷗外や夏目漱石は彼らなりのやり方で、矛盾や対立を力の限り受け止めた。
 精神のありようは確かに時代に刻印されている。しかし同時に、時代を超える力を持ちうることも本書を通じて感じた。戦後、田村隆一や鮎川信夫ら若い詩人たちが死をテーマに選んだのは、物理的にも精神的にも身近だったからだ。理不尽に強いられた死を見つめ、死者と言葉を交わすことが、彼らにとって戦後を生きることだった。そんな真剣さから生まれた詩は、いつ接しても心に迫る。
 頁(ページ)をめくりながら、どこかの読書会におじゃましたような気分になった。現代語に訳され読みやすい引用があり、やさしく語りかけるような筆致がある。在野の哲学者である著者は、読書会や勉強会をさかんに開いているという。本書もそのなかから生まれたものなのだろう。やわらかな知性のかたちを見た。
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はせがわ・ひろし 1940年生まれ。学習塾を開くかたわら在野の哲学者として活躍し、特にヘーゲルの翻訳で評価される。著書に『ヘーゲルの歴史意識』『丸山眞男をどう読むか』『初期マルクスを読む』『日本精神史』。