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インターセクショナル・フェミニズム 共に闘い、共に変えるために 水上文

プラカードを手に歩くインドのトランスジェンダーたち=2015年、ニューデリー

 私たちの社会には、ジェンダーに基づく暴力や抑圧が溢(あふ)れている。芸能事務所による未曽有の性暴力、お笑い芸人による性加害が露(あらわ)にしたのは、加害者によるおぞましい暴力に留(とど)まらない。それらを放置し蔓延(まんえん)させてきたのは、この日本社会なのだから。未(いま)だ続くロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザでの虐殺など、恐るべき殺戮(さつりく)と人権侵害を可能にせしめている国際社会の一員こそ、他ならない私たちなのだから。暴力と抑圧をもたらす構造を分析し、見定め批判し、社会を変えるために、私たちにはぜひともフェミニズムが必要なのだ。

 しかし、社会を変えるフェミニズムとはどんなものなのか。加害を告発し、被害者への連帯を示すための#MeToo運動が、フェミニズムにとって極めて重要なことは事実である。ただ誤解してはならないのは、フェミニズムは加害者を処罰し、被害者を保護する思想ではないということだ。

二分法を超え

 『被害と加害のフェミニズム』はこの意味で、#MeToo以降のフェミニズムを考えるための必読書である。本書は被害と加害の二分法に留まる運動を批判する。連帯を放棄して「女性優先」を主張し、女性の被害者性を強調するフェミニズムは、優先されるべき「女性」とそうではない人を恣意(しい)的に線引きすることで、新たな抑圧へと変貌(へんぼう)してしまうからだ。フェミニズムは被害と加害を生み出す構造に焦点を当て、構造をこそ変える試みなのである。

 抑圧的な構造を批判するために着目しなければならないのは、ジェンダーに留まらない。たとえばフェミニズムは、しばしば最も個人的で、政治とは無縁なものだと考えられているセックスが、いかに既存の社会の不平等と関連しているかを暴いてきた。そうした過去の蓄積を引き継ぎつつ『セックスする権利』が語るのは、「個人的」とされるセックスに入り込む複数の抑圧である。誰のどんな身体がとりわけ欲望され、承認されているのか。既存の差別や権力勾配、国家権力や資本主義と、セックスはどのように関係しているのか。示されるのは、国籍や階級、セクシュアリティや障害など、他の様々な抑圧と絡み合いながら存在する欲望の問題である。オンライン・ポルノやセックスワークなどを俎上(そじょう)にあげながら本書は、自由と変革を求めるフェミニズムにとって、インターセクショナリティ(交差性)が必要不可欠であることを明確に指し示すのである。

 なおインターセクショナリティとは、様々に交差する権力関係を分析するための概念である。それは複数の抑圧に目を向けることを求める。一言で女性と言っても、国籍や階級などによって状況は異なる。にもかかわらず共通点にのみ焦点を当てることは、集団内部の差異を取りこぼすばかりか排除さえ呼び込むのだ。たとえば近年、一部のフェミニストによるトランスジェンダーの女性に対する差別が横行していることは、この悪(あ)しき例だろう。

抑圧の交差点

 そして『ウィッピング・ガール』は、インターセクショナルなフェミニズムを実践する一冊だ。本書はシスジェンダー中心的なフェミニズムが見落としていた問題を鮮やかに指し示し、女性嫌悪がトランスの女性への抑圧においていかに作用しているかを暴き出す。本書によれば、トランスの女性がとりわけ攻撃されるのは、彼女たちがトランス差別と女性嫌悪という、まさに複数の抑圧の交差点に位置しているからなのだ。

 必要なのは連帯だ。共に闘い、共に社会を変えていくためのインターセクショナルなフェミニズムこそ、私たちには必要なのである。=朝日新聞2024年3月9日掲載