いろんなものを見て生きてきたと思う、見たかったものを見ることもたくさんあったけど、そんなのは本当は自分の「見る」という記憶の中ではごく僅(わず)かで、多くは見てもなんとも思わなかったもの。そして時には「見てしまったもの」「見たくはなかったもの」にも出会っている。視覚のショッキングな出会いは簡単には忘れられず、それでも「見る」ことをやめられず、美しいものや大切なものを見ることで「見る」という行為への恐怖を拭い去っている。
見ることは美しいものに出会うことだけではないのだ、ということを絶対に忘れることはできない。美しいものをいくら見ても、自分が見てきたものを本当の意味で忘れることはできない。でもそうした記憶があるからこそ、肌に触れられたような、そんな生の感覚で受け取ることのできる「見る」ってあって、宇野さんの絵はまさにそういうもの。
生まれたてでは全くない、自分の擦り傷やかさぶたや消えないあざのようなものがたくさんついた魂だからこそ「あ!」と受け取るざわめきがあり、それがそうして美しく感じられる。美しいと思えることが、恐ろしくも嬉(うれ)しかった。=朝日新聞2024年5月4日掲載