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浅倉秋成さんの読んできた本たち 小説から遠ざかっていた学生時代「容疑者Xの献身」から受けた衝撃

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小学生時代に読書から遠ざかる

――以前、小中高生時代はあまり小説を読まなかったとおうかがいしましたが...。

浅倉:編集者から「十全に準備してきたほうがいい」と言われて読書歴を振り返ってみたんですが、学校で朝の読書時間もありましたし1冊も読んでいないわけじゃないです!

――小説じゃなくても、漫画でもアニメでも、創作に影響を受けたであろうものが分かると嬉しいです。では、いちばん古い読書の記憶から教えてください。

浅倉:小説ではなく漫画になるかもしれないです。小学2年か3年の頃、父の散髪についていった時に、父が「髪を切っている間ヒマだろうから」と言ってコンビニで漫画の『みどりのマキバオー』を買ってくれたんです。僕がアニメを見ていたので「これがいいだろう」って。それを読んで漫画という概念を知りました。絵と文字で作られているのが画期的で、「これ面白いじゃん!」と思いました。それが教科書みたいなもの以外での読書としてのスタート地点な気がします。

 じゃあ小説を最初に読んだのはいつなのかというと、おそらく小学校5年生の時に読んだ岩波少年文庫の『三国志』です。当時、父親がスーパーファミコンの「三国志」をやっていたんですが、僕はそれが中国の話だとも分かっていなかったんです。「知らない人ばっかりだね」と言ったら「誰だったら分かるんだ」と訊かれ、「徳川家康」と答えたくらいでした。それで両親が「これを読んでみろ」と言って岩波少年文庫の『三国志』を上巻と下巻を買ってきてくれたんです。

 学校の朝の読書時間に、苦い薬を飲み下すようにそれを一生懸命読みました。一応、面白いといえば面白いんですよ。呂布が出てきたら「あ、武力100の奴だ」、諸葛孔明が出てきたら「あ、知力100の人だな」と、ゲームと重ねあわせて楽しめました。それで上巻から下巻に移った時に、なんとなく物語のトーンが落ちた気がしたんです。それでも読み終えたんですが、後になって親と本屋さんに行った時に、『三国志』が上中下巻並んでいることに気づいたんです。中巻を飛ばしていたんですよ。「そうだったのか! 中巻も読まなきゃ」と中巻を棚から抜いて、上下巻だけが残されたのを見て「きっとまた同じ悲劇が繰り返される」と思いながら買いました。

――学校では朝の読書時間がずっとあったのですか。

浅倉:毎朝10分間あったと思います。僕からしたら読んでいるというテイの10分間でした。その間に2ページ進んだら、たくさん読めたと思ってものすごく嬉しかったです。
 同じクラスにダイキくんという本の虫がいて、母親同士も仲良かったんです。ある日ダイキくんのお母さんに「うちのダイキは本に夢中になっていると話しかけても気づかないことがあるでしょう? 無視しているわけじゃないから許してね」と言われて、めちゃくちゃ格好いいなと思いました。僕もそうなりたくて、ぜんぜん本に集中していないのに、話しかけられてもわざとしばらくしてから「あ? なに?」みたいな反応をしたりしていました。

 そのダイキ君が小学5年生の時、図書室で夏休みの宿題の読書感想文用の本を選んでいる時に冗談で「これにしたらいいじゃん」と『吾輩は猫である』を薦めてきたんですよ。「これ選んだら痛い目みるよ、こんなの読まないでしょ?」みたいな感じだったんだと思うんです。でも僕は調子こいて「あ、じゃあそれにするわ」って決めて、それで本当に痛い目をみました。あの本は僕には難しくて、それで読書が嫌になっちゃったという。小学生時代に読んだ小説は以上です。

――小説以外はどうでしたか。

浅倉:伝記は読んでいました。「ライト兄弟」とか「キュリー夫人」とか「ベーブ・ルース」とか。でもそれも、「今日これから1時間は読書の時間です」みたいに言われて読まざるをえない環境の時に読んでいました。

――漫画は。

浅倉:『みどりのマキバオー』以降は、『ONE PIECE』ですね。直撃世代でした。『ドラゴンボール』を読んだのはもうちょっと後かな。あれは僕よりちょっと上のお兄ちゃん世代が読む漫画のイメージでした。ピッコロ大魔王のお腹をつきやぶったりするので、『ONE PIECE』よりグロテスクなイメージがあったんです。小学生で『ドラゴンボール』を読んでいると「おお、すげー」と言われるイメージでした。中学生になると明確に読む漫画といえば「少年ジャンプ」になるんですけれど、小学生が読むものといえば「コロコロコミック」だったんですよね。『カンニンGOOD』という秘密道具を使ってカンニングする漫画にワクワクしていました。

 僕はレインボーというお笑いコンビのジャンボたかおと小・中と一緒だったんですけれど、ジャンボに4つくらい上のお兄ちゃんがいて、そのお兄ちゃんから輸出された文化がひどく格好いいものに見えていました。小学生の頃、当時「少年ジャンプ」にガモウひろしさんが連載していた『とっても!ラッキーマン』という漫画があったんです。アニメにもなって、オープニングを八代亜紀さんが歌っていました。ジャンボも僕もそれに夢中になりましたね。努力マンとか勝利マンみたいに、いろんなナントカマンがいて、その中で主人公はラッキーマンなんです。今でいうと『僕のヒーローアカデミア』みたいなものかなと思うんですけれど。とにかくラッキーなことがいろいろ起きる話で、ジャンボたかおとキャッキャと楽しんで読んでいました。

――ジャンボたかおさんとはいつから一緒だったのですか。

浅倉:小4からですね。4、5、6年と一緒の野球部に入っていました。後にジャンボと名乗るくらいですから彼はその頃から身体がでかくて、すでに170㎝あったんですけれどいつもベンチで、当時140㎝台だった僕のほうが試合に出ていました。中学生になると逆転して奴のほうが活躍してキャプテンになって、僕はベンチでした。

 野球を始めたきっかけは、当時は男の子はスポーツをやっていないとダサいという空気があったからだと思います。それでも野球は好きでした。でも、僕もジャンボも本質は文化系なんですよね。小学5年生の頃にクラス内で漫画本を作ったりしていましたし。

 誰かが自宅から持ってきたA4用紙を半分に折ってホチキスで留めて雑誌みたいにして、何ページから何ページは〇〇君、などと決めて描いていました。5年1組だったので「コミック51」というタイトルでした。それを教室の隅に置いといて、読みたい人は読んでいいよ、みたいな感じで。僕はギャグ漫画とストーリー漫画の2本、連載を抱えていました(笑)。

――どんな内容でしたか。

浅倉:ストーリー漫画のほうはめちゃくちゃ『ONE PIECE』の影響を受けた内容でしたが、人間が描けないのでネズミが冒険する話でした。ギャグ漫画のほうは「星のカービィ」のカービィみたいな絵で描いていました。

――そういえば、浅倉さんって漫画家になりたいと思っていた時期があったとおっしゃっていませんでしたっけ。

浅倉:小学生の頃も漫画家やプロ野球選手になりたいとは思いましたが、どこかで無理だとは思っていました。どういう職業かも分かっていないまま、弁護士になりたいと言っていた時期もありました。たぶん今の、論破したつもりで気持ちよくなっている論破厨の子供たちのいにしえバージョンだったんでしょうね。弁護士の仕事ってそういうことじゃないのに、喋りが上手で、うまいこと言って相手を倒す仕事と勘違いしていた気がします。小学生で弁護士になりたいという人があまりいないから格好いい、という理由もありました。ちなみにジャンボも僕と同じ病気で(笑)、「放送作家になりたい」って言ってました。小学生で放送作家という仕事を知っている人って少ないから、「放送作家? なにそれ」って訊かれて「(得意げに)あ、知らない?」って言いたいだけという。

――浅倉さんってものすごくお話が上手ですが、その頃からご自身が喋りが上手いって自覚があったのですか。

浅倉:いや、自覚はないです。自分の力量なぞ見極められていないです。でも、喋るのが好きではあったんですよ。当時からむちゃくちゃ喋っていたと思います。うちの母親も、自分の息子がこんなにお喋りになるとは思っていなかったと思います。

――ご家族は喋るんですか。

浅倉:何を基準にするか難しいですね。父親は饒舌です。母親も寡黙ではないですね。お喋りの偏差値でいったら50以上はあると思います。

――どんな場所で育ったのですか。

浅倉:幕張なんですけど、僕らが住んでいたのはマンションが並ぶ住宅街でした。スーパーがひとつあるくらいでお店というお店はほとんどなく、一軒だけある駄菓子屋さんでみんなたむろしていました。書店は老夫婦がやっている店が駅前にあったんですが、あっという間になくなりました。

――千葉県ですよね。そういえば浅倉さん、千葉ロッテマリーンズのファンでしたね。

浅倉:小学生の頃のヒーローといえば、千葉ロッテマリーンズの選手たちでした。いまだに憶えているのは、野球部の合宿でビンゴ大会があって、100人くらいいるなかで僕が2番目だったんですよ。「やった~!」と思ったら賞品が遊戯王カードで、30位以下の人の賞品が千葉ロッテの選手の下敷きだったんです。もう、羨ましくて羨ましくて。大人の感覚からしたら遊戯王カードのほうが価値が高かったんでしょうね。あくまで2位の余裕を見せながら「交換してもいいよ?」と言っても全員に断られて、涙が出そうでした。せめていいカードが入っていないかと思って遊戯王に詳しい奴と一緒に開けたら「ああ、ゴミだね」みたいに言われるし、開けちゃったから交換もしてもらえないし。あれは悔しかったです。

勉強としての読書

――中学生時代は。

浅倉:野球部で忙しかったので、漫画も読んだのは『20世紀少年』とか『MONSTER』くらいでした。うちの野球部は県内でいちばんきつい練習をしているんじゃないかというほどで、毎日3キロ走って、金曜日は10キロ走ってました。走ってばかりで野球の練習はあまりしていないから、単にイニングの後半になってもバテない下手な奴らでした。

 中学でも朝の読書時間があって、それで親が買ってきてくれた池田晶子さんの『14歳からの哲学 考えるための教科書』を読みました。いまだに内容を思い出して「なるほどな」と思うことがあります。哲学入門のような内容で、「自分ってなんだろう」という問いかけがあったんですよ。「この身体です」といっても、それは「自分」じゃなくて「自分の身体だよね」とか。つきつめていくと「自分」というのは概念で、どこにも存在しないということが語られていく。それを読んで、「世界ってすげえ。ものを考えるって楽しいぞ」と学んだ気がします。理屈っぽさにも拍車がかかりました。

――浅倉さんの小説はとてもロジカルに構築されていますが、子供時代から理屈っぽいというか、ロジカルなものが好きだったのですか。

浅倉:ロジカルモンスターです(笑)。ただ残念ながら、周囲はロジックよりもノリのほうが大事なんですよ。たとえば、ローマ字を習った時に、長音はアルファベットの上に符号を書くと教わったんですよね。「Ō」みたいに。でも「甲子園」を「KOSHIEN」と書いても間違いじゃないですよね。そう書いた奴がいた時に、みんなして「これじゃコシエンじゃん」って馬鹿にして笑うんです。そこで「それも間違いじゃないよ」と言うと、「なんだ面白くないな」となる。だからロジカルモンスターは好かれないです。そうした理屈が通じない世界がすごく嫌だったので、大人になって理屈が通るようになったのはすごく嬉しいです。

――国語の授業は好きでした?

浅倉:苦手意識はないけれど好きでもなかったです。中学生の頃は「これは勉強なのか」と疑問を感じていました。というのも定期試験が、物語の内容について問題を出されて、読み返して答えるみたいな内容だったんです。「山」と訊かれて「川」と答える合言葉のようなもので、これで学力が上がるの? と思っていました。

 作文は正直、苦戦しませんでした。一応みんなに合わせて「嫌だなー」と言っていましたが、なんならいちばんラクでした。中学生の頃はジャンボのせいで面白いことが正義、みたいな空気があったんですけれど、3年生の時に「中学の思い出」みたいなもの書くとなった時に、僕は「ここに文豪がおるやんけ」というボケで笑わせるために、やたら小難しい言葉を使って書いたんです。「我々は~であった」みたいな文体で。ろくすっぽ本を読んでいないのに、そういう文章は書けました。いまだにジャンボがその文章のことを言ってくれます。

――中学生の時、ジャンボさんが面白いことが正義、みたいな空気を作っていたんですか。

浅倉:あいつは中学生でもう180㎝くらいあったんです。その身長で周囲に「面白いこと言えよ」と圧をかけてくるんです。みんな何かやらざるをえなくて、それぞれ持ち芸みたいなものを作って、度胸だけはつきました。ジャンボはダウンタウンさんが好きだったので、教室で「ガキの使いやあらへんで!」みたいな空気を作りたかったんですよね。

 なおかつ、あいつは「女とつるむ奴なんて信じられねえ」とか言うんです。みんな女の子にアタックする勇気がないから、そう言われて助かったんです。そのために女の子から告白されても断わらざるを得ない奴もいました。ジャンボもモテるはずなのに、言い出したのは自分だから好きな子とつきあえなくて、男子全員不幸になりました。

――浅倉さんもお笑いは好きでしたか。

浅倉:大好きでしたね。その頃からM-1はビッグコンテンツでしたし。ただ、テレビは好きだったんですが、部活が忙しかったからあまり見られませんでした。

――高校時代は、本を読みましたか。

浅倉:しっかり読んだ作品があります。大学入試を日本史で受けようと思い、勉強のつもりで『竜馬がゆく』全8巻を読みました。父親が買ってきたので俺も読んでみようかなと思ったんだったかな。今思うと、多分にフィクションが含まれているあれを歴史の教材としてよかったのかっていう。でも楽しく読みました。

 あとはしいていえば、『ダ・ヴィンチ・コード』です。映画の予告編で「モナ・リザ」の絵に光を当てると文字が浮かび上がるシーンがあったんですよ。実際は絵の前にアクリル板か何かがあって、そこに文字が書かれていたんですけれど、僕は馬鹿だったので「モナ・リザ」に直接文字が書かれていると勘違いしたんです。「これはやばい。すごいことが書かれてある本に違いない」と思って読んだら全然違いました。まあ、面白かったですけれど。振り返ってみると、当時の僕は、学術の延長として物語を手に入れようとしていたフシがありますね。

――それは、当時の読書指導とか読書推奨の影響もあったのでは。本を読むと教養が増すとか、想像力がつくといった利点が謳われていたりして...。

浅倉:おっしゃる通りな気がします。少なからず本を読め読めいう大人の教え方に影響を受けた部分はありますね。いまだに憶えているのは、中学生の教師が北欧かどこかの国を挙げて「その国で一番偉い人って知ってる?」「王様でもない。大統領でもない。(得意げな口調で)本を一番読んでいる人が一番偉いんだよ」と言ったんですよ。そんなの嘘なのに。

 その頃、僕にとって本は「良薬は口に苦し」、みたいなものでした。「苦しさに挑め」みたいな感覚で、面白くない本にこそ価値があると思っていたんです。読んでいる間、どの瞬間を切り取っても辛くて苦しいけれど、それが自分の筋肉になるはずだと思っていました。ジム通いと同じ感覚ですね。それで背伸びして『竜馬がゆく』や『14歳からの哲学』を読んだので、少なからず筋肉にはなりましたけれど。もしもその頃に「東野圭吾さんの本を読んだらいいんじゃないか」って言ってくれる人がいたら、全然違ったと思う。でもそうではなく、教師は『資本論』みたいなものを読むべきだ、みたいな空気を出していました。だから読書は面白くないけれどやらなきゃいけないものでした。

 だから、読書好きな人に対するコンプレックスはすさまじいものがありました。「人と関わるのが苦手でずっと図書室にいました」みたいなことを言う人が格好よく見えて仕方がなかった。小学生の時、図書室に「今月の貸し出し数」のランキングが貼りだされていたんですけれど、ひとつ上にものすごく本を借りている女の子がいて、とんでもない羨望の眼差しを送ってました。

アニメとお笑いと受験

――ところで、高校でも野球部だったのですか。

浅倉:野球がものすごく強い高校に進学したので、僕には無理だろうと思い、バレーボール部に入りました。それも半年くらいで辞めちゃいました。

 僕、高校受験で大失敗したんです。偏差値64と62と37の高校を受験して、37の学校に行くことになり...。今はもっと偏差値が上がっている学校なんですけれど。それでもう受験に失敗したくなくて、大学受験のための勉強をちゃんとしようと思っていました。

 ただ、この頃から深夜アニメを見始めます。おさがりのテレビデオをもらって、自分の部屋でテレビが見られるようになったんですね。深夜アニメといっても当時は夜の10時台から0時台という、起きていられる時間帯に放送されていました。その頃はまだ、アニメを見ていると言うとちょっと恥ずかしい空気がありました。だから家族にも知られないように、音をちいさーくして耳を澄ませながら見ていました。ラテ欄しか情報がなかったので、内容も知らないまま、なんでも見ましたね。「涼宮ハルヒの憂鬱」とかが放送されていた頃です。「Fate/stay night」とかが記憶に残ってます。当時オタクの間で「『Fate』は文学、『CLANNAD』は人生」と言われていた二大アニメの片方の作品です。

――高校時代、ジャンボさんとお笑いの活動もされていたそうですが。

浅倉:前から2人で遊んでいる時に漫才の真似事はしていたんです。中3の時も、公立高校の試験の前日に担任が「誰かになにか景気いいことやってほしいな」って無茶振りをして、クラスの中心人物でお笑いスターといえばジャンボですから、ジャンボと僕で漫才を披露したことがありました。

 ジャンボとは別々の高校に進んだんですが、3年生になってあいつはAO入試で早々に大学が決まり、暇になったといってちょっかいを出してきたんです。当時は今の「ハイスクールマンザイ」が「M-1甲子園」という名前で開催されていて、「それに出ないか」って。それで一緒に電車とバスを乗り継いで地区予選会場の成田のイオンまで行きました。僕らは他の誰にも出ると言わなかったんですが、他の子たちは家族とか友達とかいっぱい呼んでいて、明らかにアウェイの空気でした。それでもトリでめちゃくちゃ爆笑をとったんです。こんなに気持ちいいものかと思いました。僕らが舞台を降りた後、他の出場者が集まってきて、「すごかったです!」って言ってくれて。「何年やってらっしゃるんですか?」「いやあ初舞台ですけど~?」と話していたら結果発表になって、全然違う番号が呼ばれました。さっきまで「すごい」と言ってくれてた子たちが選ばれて、僕たちはポカーンとなって。審査員の一人が、「高校生らしさを何より大事にしました」って言うんですよ。確かに僕たちがやったのは居酒屋でビールを飲むというネタでした。軟骨のから揚げがどうのとかいう内容でした。

 二人で帰りながら、大人はこういう時にお酒を飲むんだろうなって思いましたね。結局、下戸でお酒飲まない大人になりましたけれど。ただその後も、その時の会場で声をかけてきた人に誘われて小さな大会に出て賞を獲ったりはしましたし、大学生になってからも何回かお笑いの地区大会には出ました。

――そんな活動をしながらも、大学受験は無事に合格したのですねえ。

浅倉:無事合格して、学校は結構盛り上がってくれました。偏差値37の高校なんで(笑)。うちのクラスには一般受験する生徒が3人しかいなかったんです。他の人たちはみんな専門学校の推薦入学とか就職が決まっていたので、何も決まっていない奴は劣等生扱いだったんです。「みんなもう進路が決まっているのに、お前らは全然決まらないな」って感じで。試験日が先なのでしょうがないのに。一生懸命勉強しているんだから褒めてほしいのに、針のむしろでした。授業も受験向きの内容ではなかったので、3年生の時は出席日数が足りているかを確認してから、夏すぎから健全な不登校となり、朝起きて制服着てドトールとかに行って勉強して、14時くらいから河合塾にいって勉強して家に帰っていました。私服で塾に行くと浮くので、そのためだけに制服を着てたんです。先生には「病弱なんで」と嘘ついて、「この日だけは登校しなさい」と言われた時だけ学校に行ってました。

 で、まずセンター試験で何点以上だと合格になる私立大学があったので、そこに願書を出しておいたら受かったんです。学校に報告しに行ったら、「やったー!!」「このまま頑張れー!!!」という反応で。僕の銅像が建ちそうな勢いでした。

学びと読書と創作の楽しさに目覚める

――大学の学部はどのように選んだのですか。

浅倉:文学部の心理学科です。たぶんそれは心のどこかでお笑いを目指す気持ちがあったからです。心理学科ならメンタリストみたいなことが学べて、お笑いにも役立つだろうという気持ちがあったと思います。まあ、めちゃくちゃ心理学を勘違いしているんですけど(笑)。

 大学の勉強は面白かったです。僕はすごく真面目に勉強して、2年生の時は成績優秀者に選ばれて学費も半分返金されました。親に「ほら、返すわ」ってドヤ顔しました(笑)。僕の中のささやかな親孝行でした。

 頑張って勉強したというより、本当に勉強が面白くて仕方なかったんです。中学の時の国語の定期テストの「山」と訊かれて「川」と答えるみたいな内容ではなく、ちゃんと意味があることを教えてもらえる。自分の中で知の面白さが開花しました。と同時に、読書の面白さも知りました。

――読書の面白さを知ったきっかけは。

浅倉:大学1年生の時ですね。パサール幕張という、デパ地下みたいなパーキングエリアの和菓子店で生まれてはじめてアルバイトをして、おはぎを握っていたんです。いまだにおはぎの120gの感覚は憶えています。で、隣が崎陽軒で、お客さんがいない時に、そこの30歳くらいのお姉さんとよく喋っていたんです。その人が僕の19歳の誕生日に、なんか買ってくれると言って欲しいものを訊かれたんですけれど、何も浮かばなくて。そしたら本をくれたんです。東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』と『秘密』でした。渡されて内心「うわー、本か...。でももらったからには読まないとな」という感じで。

 同じ時期、大学で、原作小説のある映画を観て感想を書けば単位をくれるという、めちゃくちゃ楽な授業をとっていたんです。その授業で映画の「容疑者Xの献身」を観たんですよ。これなら家に原作本があるなと思って開いてみたら、つるつると読めるんです。最後まで読めて、ちゃんと面白い。そこで「本って読めるんだ」という当たり前のことに気づきました。

 それで、大学の帰りに書店に行ったんです。文庫売り場なんて今までの自分にとっては何の意味もない空間だったんですけれど、見た瞬間、「うわ、ここにある本全部どれを読んでもいいんだ」、となりました。あの時の世界の広がり方は、筆舌に尽くしがたいですね。俺は今まで人生というゲームの一面しか知らなかったけど、人生には二面があるんだ、というような感じでした。

 じゃあそこで何を読もうかとなった時に、同じ著者の本を選ぼうとは思いませんでした。『容疑者Xの献身』を読んだ時、「東野さんの本を読んだ」とか「ミステリを読んだ」というより、ただただ「本を読んだ」という感覚だったんです。テレビのラテ欄を見ただけでミステリだろうがラブコメだろうか知らないままいろんなアニメを見てきたので、ジャンルというものにも頓着がなかった。それで、次になんの本を読もうかとなった時に、ちょうどノーベル文学賞か何かで村上春樹さんが話題になっていたので、「村上春樹とか読んでみちゃう?」みたいな気持ちで『海辺のカフカ』を選びました。読んだことのない人間からすると、村上さんって日本文学の最高峰で、きっと難しいだろうなというイメージがあったんです。そうしたらとても読みやすいじゃないですか(笑)。最初書店で『海辺のカフカ』か『ねじまき鳥クロニクル』か迷ったんですが、後から思うと僕の選択は正しかったですね。

 『海辺のカフカ』でさらに「本が読める」「面白い」となり、次は伊坂幸太郎さんを読もう、となりました。なぜかというと、ジャンボが「うちの兄貴、本好きなんだよね。村上春樹とか伊坂幸太郎を読むんだよ」って言っていたのを憶えていたんです。そのせいで、小説家のことを何も知らない僕の中では村上春樹と伊坂幸太郎は二大作家というか、セットのような作家さんなのだろうなというイメージになっていたんです。風神・雷神みたいな。それで伊坂さんを選んだんですが、この選択が素晴らしかった。最初に『グラスホッパー』を読み、次の『ラッシュライフ』でものすごく好きになりました。

 それからもらった『秘密』も読み、村上さんも『ノルウェイの森』や『1Q84』なども読みました。森見登美彦さん、万城目学さんの作品も読みました。森見さんは『四畳半神話大系』のアニメがすごく好きだったんです。万城目さんは最初に『鴨川ホルモー』を読みました。

 この頃からませてきて、アニメも、ラブコメも好きだけどもうちょっと格好いいパッケージの、深いことを言っていそうなものに惹かれるようになりました。『攻殻機動隊』とか。そのなかで『ひぐらしのなく頃に』とか『化物語』とかが結構好きだったんです。『化物語』は友達に借りて原作は読んでいましたが、『ひぐらしのなく頃に』はずっとアニメしか知らなかったんです。そこから、原作を出している講談社BOXのシリーズに興味がいくようになります。

――ああ、浅倉さんは後に講談社BOX新人賞Powersを受賞してデビューされますよね。小説を書きはじめたきっかけは何かあったのですか。

浅倉:小学生の時に漫画を回し書きしたり、お笑いのプレイヤーになろうとしたりと、何かを作りたい、何かをやる人になりたい、という欲はありました。漫画を沢山読んでいたしアニメが好きということもあって最初は漫画家になりたい欲も強かったんですが、ある一定以上から画力が向上しなかったんです。ギャグ漫画ではなくシリアスなものを描きたいと思っても、画力が足りなくてそれに合う絵が描けなかった。

 大学3年生の時に選択授業で文芸創作講座をとったんです。自動販売機というテーマで評論を書いてください、その次は自動販売機というテーマで小説を書いてください、といった課題が出て、受講者の30人くらいが全員無記名で提出して、毎週感想を言い合っていました。なんか、たまらなく楽しかったですね。学生が書いているから格好つけたものだってあるんです。それさえも一生懸命に意味を見つけ出して、「ここがよかった」とか「ここをこうすればもっとよくなる」みたいなことを言い合う合評って、僕がはじめて知る世界だったんです。そこで友達を作るというわけでもなくて、ただただ毎週その教室で顔を合わせて合評するだけの関係が続く。そんなドライな感じも含めてよかった。僕以外の他の学生はほとんど日本文学科の人で、みんな文章がすごく上手いんです。自分の自惚れみたいなものは一切なくなって、負けないように頑張んなきゃ、となりました。その思いは今でもどこかにあります。たぶん、あの教室にいた人たちの方が、今でも俺より文章は上手いぞって。

  それで、小説なら漫画よりも高い次元で出力できると気づき、より一層本を読むようになりました。僕の中では、読む喜びと書く喜びが同時期に訪れたような感覚があります。

就職してすぐデビューが決定

――学生のうちに新人賞への応募も始めていますよね。

浅倉:講談社BOXシリーズを5冊くらい読んだ時点で一回投稿して、これは撃沈しています。うろおぼえですがSFというか、セカイ系でした。もろに僕と君の存在が世界の破滅に...云々っていう。今となっては歯がゆいんですけれど、当時は切実でした。

 選評で文章のまずさを指摘されて「音読して読み直してほしい」と書かれ、「このやろう」と思って読み返したら本当にひどい文章でした。それで文章にもっと真摯に向き合わねばならないと思い、春樹エキスを沢山吸うんです。だから僕のデビュー作となった『ノワール・レヴナント』は、春樹エキスの味がすると思います。する人にとっては。

 落選が悔しすぎたので目にものをみせてやろうと思って、次は3作傑作を送って「こいつは化け物だった!」と言わせてやろうとしたんですよね。結局2作しか仕上げられなかったんですけれど。次の締切が5月か6月だったので、学生のうちに書いて、就職してから送りました。

 そうしたら新人研修中に受賞の連絡をもらったんです。まあもう、研修が頭に入らなくなりますよね(笑)。でもやっぱり、すぐに会社を辞めようとは思いませんでした。会社というものを取材しておこうというほど格好いいことは思わず、ただ、働きたかったんですよね。最初はスーパービジネスマンになるぞ、みたいな気持ちでした(笑)。

――ところで、ジャンボさんはプロになったわけですが、浅倉さんはお笑いの道は選ばなかったわけですか。

浅倉:あいつはプロの道に行く気満々でその後NSCに行きましたが、僕は怖かったんです。自分が本当に面白いのかただの自惚れなのか分からないままNSCに1年間通えば一応プロにはなれるんですよね。何の審査も経ないでプロになって大丈夫なんだろうかという気持ちがありました。僕は、誰かのお墨付きをもらってプロになりたかったんです。その点、小説家は一年間学校に通ったらプロになれるというわけじゃない。僕は、そういうほうがよかったんです。

 それに他の方がどう思うかは分かりませんが、当時、ジャンボは光り輝いていたんです。こいつと一緒に漫才をやっていたら、「じゃないほう芸人」になるのは間違いなくて、それはちょっときついぞという(笑)。うちは両親も一般人で父親もサラリーマンだし、息子にちゃんと就職してほしそうなオーラ出しているし、そこで「俺芸人になるよ」と言えるほどパンクになりきれませんでした。それで一回就職して働きながら夢を追うことにしようと思いました。お笑いと物語を作ることを天秤にかけたら、やっぱり物語を作る方がやりたかった、というのもあります。

――会社では、どういう職種だったのですか。

浅倉:営業職でした。『ノワール・レヴナント』で受賞して、同時に応募した『フラッガーの方程式』も書籍化することになって、じゃあ3作目を書きましょうとなったんですが、仕事があまりに忙しくて全然進まなかったんです。よくグレー企業と言っているんですけれど、ブラック企業には至らないかもしれないけれどホワイトとは言えない環境でした。僕は会社からわりと近いところに住んでいたんですが、夜11時に仕事を終えて11時30分に家について、寝て起きたら7時で、8時には会社に着いていないといけない。あの時期、頭の中の物語というものを楽しむ細胞は全滅しました。映画「花束みたいな恋をした」の中で、麦君が就職してから本が読めなくなっていきますが、まさしくあんな感じです。2012年から14年はアニメも小説も摂取できませんでした。摂取冬の時代です。小説を書く時間も全然捻出できないし、無理して書いても全然面白くなくてボツでした。

――それで退職を決意したわけですか。

浅倉:仕事でも行き詰まったというか。最初は新卒のペーペーとして、いろんな先輩たちが車で営業するのについていっていたんですが、みんな途中でサボるし、「このお客さん明らかにこういうの欲しがっているのに」と思っても全然提案しないんです。「この人センスないのかな」って思いました。でもそれは思い上がりでした。

 一人で営業するようになってから、僕、結構頑張ったんです。ばんばん営業して、ドアノックで新規開拓して。そうした結果どうなったかというと、仕事はとれるけど、僕が一番遅くまで会社にいる割に、誰よりも給料をもらえてないという状況になるんです。みんなはしっかり早く帰って、年功序列でいい給料をもらっている。あるとき、新規で100万円規模の仕事とってきたところ、会社から特別報奨金が出ると言われまして、こりゃきっとすごい額がもらえるぞと思って期待してたら5000円振り込まれたんです。あれだけ頑張って5000円か、と。当時は会社の仕組みもよくわかっていなかったので、それなりに落ち込みました。まだまだ古い体質の会社だったので、ゴルフコンペの手伝いに行って全テーブルのウイスキーの水割りを作ってまわって来いと言われまして。でも僕は酒を飲まないから分量が分からなくてグラスにウイスキーを半分くらい注いでしまって「馬鹿野郎!」って怒鳴られたりして。全部が辛かった。

 先輩たちのことを「センスがないのかな」と思った僕が馬鹿だったと気付きました。やれないからやらないのではなく、力の抜き方をわかっているから無理をしないんだ、って。気づいた瞬間、これを何年も続けるのは厳しいなと思ってしまいました。仕事しなかった月には一円ももらえなくていいから、頑張った月は歩合で欲しいと思ってしまったんですね。
 作家業だけで生きていけるなんてみじんも思っていなかったし収入面でなんの安定もしていなかったけれど、もう続けられないと思って2年ちょっとで会社を辞めました。

心を刺してくれた本

――辞めてからの生活は。

浅倉:最初はやる気に満ち満ちていましたね。4駅くらい離れたところに図書館があるので毎日そこにこもろうと思って、定期券買いましたからね。家でやりゃいいのに(笑)。

 でも初代の担当さんがすぐ異動して別の方になり、その方は一生懸命やってくださったんですけれど微妙に互いの波長が噛み合わなかったりして。うまくいかない部分もあってどんどんと気分はダウナーになっていきました。

 でも他社さんからも声をかけていただいていたんです。東京創元社さんとKADOKAWAさんで、その両方から「ミステリを書きませんか」って言われたんです。そこでようやく、ちゃんとミステリを読もうと思いまして。東野圭吾さんは読んでいましたけれど、「ミステリを読んでいる」という感じじゃなかったので、そこから勉強する日々が始まりました。

――どんなミステリを読んだのですか。

浅倉:ようやく綾辻行人さんの館シリーズを読み、我孫子武丸さんの『殺戮にいたる病』を読み、島田荘司さんの『占星術殺人事件』を読み。歌野正午さんの『葉桜の季節に君を想うということ』とか乾くるみさんの『イニシエーション・ラブ』とか『シャーロック・ホームズの冒険』とか。ミステリ初心者が「これでだけは読んでおけ」と言われるものばかりです。みなさんがもっと早く出会って夢中になるようなものを、僕は作家になってはじめて読みました。

 そのなかで、筒井康隆さんの『ロートレック荘事件』に撃たれました。なにかが反転する喜びもさることながら、自分の価値観を揺さぶられる感覚がすごかった。この得難い体験のために読書ってものがあるのかもしれないと思うくらいでした。いろんなミステリがあるなかで、トリックが素晴らしいものもあるけれど、それ以上に僕の心を刺してくれたのが『ロートレック荘事件』でした。ああいうふうに、心を刺しに来てほしいんですよね。「女の子だと思っていたら男の子でした、どう?」というだけの話だと冷めてしまったりすることもあるじゃないですか。トリックで驚かせるだけではなくて、物語として面白いものが読みたいんです。

――浅倉さんのミステリも驚かせるだけでなく、真相が分かった時に物語全体のテーマ性みたいなものが浮かび上がりますよね。

浅倉: 毎回、どんでん返しを仕掛ける時は、それがどんでん返しである意味が必要だと思っています。「この人、実は怖いでしょ?」みたいな、「ええ、怖いですね」としか思えないだけの結末になってしまうともったいない気がしてしまうんです。真相が分かった結果、読者がどう思うか、までをやるのが小説なんじゃないかって思っています。東野さんの作品がこんなにも世の中に受け入れられているのだって、やっぱり人間の情緒や普遍的な悩みみたいなものに対してちゃんとひっかかるものを書いていらっしゃるからだと思うし。

――他に撃たれた作品ってありますか。

浅倉:「人生ベスト1を挙げてください」って訊かれることってありますよね。そんなの決められるわけがないんですけれど、僕はいつも津原泰水さんの『ブラバン』って答えることにしています。すごく好きです。まず、文章を読んでいるだけで面白い。たぶん、僕はあの作品を読んだから『九度目の十八歳を迎えた君と』を書いたんです。過去と現在が交互に出てきて、青春の時の何かしらが今の自分に影響を与えているという、過去と現在の地続きな感じはあの作品の影響だと思います。いまだにどこか追い求めている瞬間があって、「なんか文章がのらないな」と思った時は、『ブラバン』を読み返します。自分の文体とは違うんですけれど、「ああ、そう、このリズムだよ」と思ったりして。自分が今書いているものと同じようなジャンルにいる人よりも、ちょっと離れたところにいる人の作品のほうが読んでいるかもしれないですね。

――小説以外では。

浅倉:結構哲学書に人生を変えてもらっている気がします。たしか社会人になってからだと思うんですけれど、法事か何かで家族で車で移動している時に、車の中でなんとなくニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を読んだんですよ。青臭いですけれど、すごいことが書いてあると思って震えました。自分が一生懸命、こうなのかな、ああなのかなと考えを積み上げていたことを、100年前にとっくに考えている人がいたんだとぎょっとした感覚だったんですかね。

 たとえば、なんで人を殺しちゃいけないのかと問われたら、たいていの人は「自分が殺されたら嫌でしょ」とか「失われた命は戻らないからだよ」という答えに逃げがちですよね。でもそれって真理ではない。だって「じゃあ自殺したい人なら殺してもいいの」となってしまうから。「命は尊いものだ」といっても、自分たちは日々動物を食べているし。ニーチェの結論は、人を殺した場合それ相応の罰を受ける、それでもなお殺したいなら殺すべきっていう。こんな明快な回答はない、これまで聞かされていた回答は道徳的には正しいけれど真理ではなかった、と思いました。

 みんなが正しいと信じているものって必ずしも真理じゃないんだ、と教えてくれた感じがありました。新刊の『家族解散まで千キロメートル』でもそういうことを書いていますけれど。
他にもアドラー関連を読んだり、カントの定言命法とか仮言命法のようなちょっと古臭い知識を得るのが面白かった。そうした哲学系の本を何冊か読んでいくと、自分の人生がちょっと変わる瞬間が来るんです。それが楽しかった。最近はあまり読めていないですけれど、人生訓はわりとそういう本からもらったりしています。僕の中では、その延長として『ロートレック荘事件』があったんですよね。根っこの部分に近いものを与えてくれた本です。

――哲学系以外のノンフィクションは読みますか。

浅倉:新書は好きですね。こういうデータがありますと示してくれる内容のものとか、心理学の本とか。僕は心理学って文系の学問だと思って専攻しましたが、実はめちゃくちゃ統計学なんですよね。あの理屈っぽさは理系のところがあると思う。そうした本が好きです。

 僕はノンフィクションを読んで「打ちのめされました」「感動しました」ということに抵抗があるんです。難病になった人の話を読んで"感動する"のって、ちょっと下品な気がするというか。亡くなった子供について「縄跳びが好きだった〇〇ちゃん」とか書いて煽っているのを読むと、そのエピソード要るのかなって思う。甲子園で肘がボロボロになるまで投げて優勝した人のノンフィクションを読むと、感動したとか言っている場合か、早く肘治してやれよ、と思う。

 「お涙頂戴の小説はくだらない」という人がいるのも分かるし、その気持ちは否定しないけれど、僕はそうした話を小説で消費するのって健全だと思うんです。ノンフィクションで泣こうとしているよりは。

――読む本はどのように選んでいますか。

浅倉:最近は、まず話題のものを読もう、となりますね。比較的最近だと、宇佐見りんさんの『推し燃ゆ』、結城真一郎さんの『#真相をお話しします』、夕木春央さんの『方舟』とか。そういう本は、なぜ売れているのか分析的に読んでしまうんですけれど。知り合いの作家さんの本は応援する気持ちが強いから素直に楽しく読めます。織守きょうやさんとか、岩城裕明さんとか、藍内友紀さんとか、澤村伊智さんとか。

 ただ、あまりに面白そうで読んだら打ちのめされるから怖くて読めない本ってあるんですよね。僕、結構、呉勝浩さんや小川哲さんの小説は買ったのに面白そうすぎて読めないんです。伊坂幸太郎さんみたいにデビュー前から読んでいた人なら気にせず読めるのに。この間仕事の合間を縫ってようやく『ホワイトラビット』を読んだんですけれど、「すげー楽しい!」と思いました。

自作と今後について

――読書記録はつけていますか。

浅倉:大学生の頃から読んだ本のタイトルは記録しています。このインタビューを受けるために一覧を見返した時、涙が出そうになりました。今僕にとって物語は研究材料でもありますが、学生の頃は物語を物語として素直に消費して、それがとんでもなく楽しかったと思い出しました。キラキラした思い出です。

――今、一日のタイムテーブルはどんな感じですか。執筆時間は決まっているのか、朝型なのか夜型なのか...。

浅倉:たぶん緩めの夜型人間なのだと思いますが、睡眠不足になると覿面に体を壊すので、ほどほどに規則正しい生活を心がけています。朝の9時半くらいに起きて、準備ができたら仕事を始める。PCの前に座ったら必ずタイマーをスタートさせて、70分が経過したらどれだけキリの悪いところでも仕事は中断してソファに寝っ転がるようにしてます。これ以上座って作業していると、肩こり、腰痛、眼精疲労にいぼ痔と、とにかくありとあらゆる不調に悩まされることになるので(笑)。70分やったら20分と少し休憩して、また70分作業。これの繰り返しを続けて、やがて深夜の2時くらいになったら寝るという形ですかね。ま、本当はもう少しテレビゲームをやったりしてサボったりもしています。そんなにガチガチに働きづめではありません。

――浅倉さんは「ジャンプSQ.」に連載中の小畑健さんの漫画『ショーハショーテン!』の原作も担当されていますよね。高校生の男の子二人がお笑いコンビを結成して成長していく話ですけれど、人がどういう時に笑うのかものすごく分析してロジカルに説明されていて面白いです。

浅倉:お笑いもずっと分析していました。M-1で勝った人のネタを全部書き下して、ボケが何個あるのか、何分に1回ボケているかを数えたりしました。そこまでしなくても、傾向は結構見えるんですよね。去年はこうで今年はこうだった、とか。お笑いが好きな人なら分かる転換点っていっぱいあるんですよ。笑い飯さんの登場はすごく衝撃的だったし、南海キャンディーズも転換点だと思うし。自分でやっていてある時気づいたのは、ヘロヘロの私服で行くとウケないということでした。パキッとキメた格好で出ていくとプロだと勘違いされるのかウケるんです。それでジャンボと二人でスーツを着てやってみたらウケ方が変わりました。見た目で変わるのを実感して、これが人間なんだと思いましたね。

――小説でも、ロジックがしっかり組み立てられているところも浅倉作品の魅力のひとつです。それに最初の頃は特殊な設定が多かったですよね。デビュー作の『ノワール・レヴナント』は人の背中に幸福度を表す数字が見える能力を持った少年ら、不思議な能力を持った人たちの話。第二作の『フラッガーの方程式』は、それこそ日常をアニメのようなドラマティックなものに変えるシステムが出てくるし。大ブレイクした『六人の嘘つきな大学生』が、はじめての特殊設定なしのミステリでした。

浅倉:アニメを見てきたせいか、特殊な設定を考えるほうが楽だったんです。『六人の嘘つきな大学生』は編集者から「就活について書きませんか」と提案されたんです。それまで大学生の話は書いたことがなかったので、チャレンジする意義があるなと思いました。自分も就職活動はしましたし、当時の実体験や疑問も反映させました。

――その次の『俺ではない炎上』は、SNSで殺人犯の疑いをかけられて大炎上し、逃亡する男の話です。新作の『家族解散まで千キロメートル』も、家族観や結婚観を今一度考えさせる内容になっている。現代社会の風潮や検証が必要であろう価値観などを提示したい、という意識はありますか。

浅倉:別に社会に対して物を申したいから書きました、ということはないんです。『俺ではない炎上』も逃亡劇をやってみたかったというのがあるし、『家族解散まで千キロメートル』は編集者から「次は家族小説ですね」と提案されたのが始まりですし。それを僕なりに書くとこうなる、という感じです。それに、「友達を大切にしましょう」みたいな、これまでにもう何度も言われたことをまた小説で書くより、せっかくなら"言われてみれば考えたことがなかったな"と思ってもらえたほうがいいな、みたいな気持ちもあります。

――『家族解散まで千キロメートル』はやはり家族小説というのが出発点だったのですね。実家の解体が決まり家族がばらばらになる予定の喜佐家で、倉庫から謎の仏像が見つかる。どうやら厄介者の父が青森県の神社から盗んだご神体らしいと気づいた一家は、山梨県から青森県まで車でご神体を返しにいこうとする。解散寸前の家族が一致団結してトラブルを乗り切る話かと思いきや、意外なことが次々起こりますね。

浅倉:いま家族の話を書くとすると、ほっこりする話か毒親が出てくるドロドロした話になりがちな気がしたんです。どちらでもない道を選びました。長距離移動する話にしたのは、自ら一緒にいたいと望んだわけではない人と同じ箱に入れられて進んでいく様子が、家族のメタファーになるなと思って。

――物語は、車で仏像を返しに行く「くるま」のパートと、実家に残った姉たちが意外なものを見つける「いえ」のパートが交互に進行していきます。ここに仕掛けがあるんですよね。物語の中で明確に真相は明かされますが、読み終えた後も仕掛けに気づいていない人もいるようですが...。でもまさに、これがどういう物語なのか気づかせてくれる仕掛けですよね。痺れました。

浅倉:やはり読者のニーズを考えると、どんでん返しは何かあったほうがいいんじゃないかなとは思っていました。それで考えているうちに、作品の中で書きたいことと合致する仕掛けを思いついたんです。途中で真相に気づく人がいるんじゃないかと不安で仕方ないですけれど(笑)。

――やはりずっと「伏線の狙撃手」と呼ばれている身としては、やらねば、と。

浅倉:まだライフルは置けないな、と。

――あはは。では最後に、今後のご予定を教えてください。

浅倉:おそらく遠くないうちに『俺ではない炎上』が文庫になって双葉社さんから刊行されるものと思われます。文庫派の方はぜひお手にとっていただければ幸いです。あとは「ジャーロ」さんで定期的に書かせていただいていた変な短篇たちが、年内には短篇集にまとまってくれると思われます。「変なの書いてください」という指示に対して本当に律儀に変な小説を書いたので、伏線もどんでん返しもないのですが、果たしてこれでよかったのだろうかと不安になる問題作です......。反応が怖いのですが、個人的には楽しい創作でした。あとは小畑健先生とタッグを組ませていただいている『ショーハショーテン!』が引き続き「ジャンプSQ.」にて掲載される見込みです。雑誌でも単行本でも構いませんので、ご興味のある方はチェックしていただけると嬉しいです。楽しいインタビュー、本当にありがとうございました!

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