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風呂の力と子規 津村記久子

 寒暖差、低気圧、そして台風。つらい日々をおくっていらっしゃる方もたくさんいることでしょう。わたしも、五月の下旬から今まで、常に腰が痛いか歯(治療済み)が痛いか頭が痛いかのどれかでした。冷やしたらいいのか温めたらいいのか、仰向けがいいのかうつ伏せがいいのか横向きがいいのか。それぞれの痛みの対処法の間でピンボール状態になっている中、「体を冷やさない、かといって熱くしすぎない」ということが、どれだけ人体にとって大事なのかということを、まざまざと実感させられた。

 去年までの自分は、五月からTシャツで暮らしてがんがん氷まみれのアイスティーを飲んだりしていたのだが、今やすっかり「冷やさない」信者だ。冬場のパイルソックスをまだ出していて、一日に寒いと感じた一時間だけはいたりすることさえある。

 もっとも有効だと感じたのは「四十度の風呂に入ること」だった。人生で初めて〈風呂の蛇口についている出てくるお湯を四十度に固定する目盛り〉を使い、その存在意義を思い知った。自分がお風呂の水温を熱くし過ぎていたことを思い知り、正岡子規が「熱き湯に入ると体がくたびれてその日は仕事が出来ぬ。(中略)熱い湯に酔ふて熟柿(じゅくし)のやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ」(「墨汁一滴」岩波文庫)と書いていたことを思い出す。今も、同じなのでは……。この次の日に子規は、鳥が水浴びをしているのを見て「自分が湯に入る事が出来ぬやうになつてからもう五年になる」と書いていたりしてやるせない気持ちになる。

 子供の頃は、ゲームの主人公がお風呂や泉に入って回復したりすることをちゃんと理解していなかった。しかしあれは真実だったのだ。今は、お疲れさまという気持ちで、ゲームの中でお風呂に入ることができる。そういう自分は、とうに子規の享年より十歳も年老いていた。=朝日新聞2024年6月12日掲載