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調理の自由 津村記久子

 基本的には、あるものを作れるようになる、創作ができることは自由になることだと思っている。子供の頃からそうだった。紙のきせかえ人形の服がもう少し欲しいなあと思ったら自分で作ったりしたし、もうちょっと自分好みの話が欲しいと思ったら自分で書いたし、もっと読みたいのに話が終わったのなら、やはり自分で続きを書いた。もちろんクオリティは低いし、思い通りにはならないのだが、べつに自分自身のやることだし、なにより、作っているうちになんとなく「欲しい」という締め付けるような苦しい感情が分解されて消えていくので、「所詮(しょせん)自分の作るものだ」と投げ捨てることはなかった。

 大人になるにつれて、小説は作れても家具は作れなかったり、ブローチは作れてもセーターは作れなかったりして、なんとなく、自分の人生における「できる/できない」ができあがっていく。自分にとって生きていることは、この「できる」を少しずつ伸張して自由になっていくことでもある。

 いろんな「作ること」の中でも、個人的にいちばん人を自由にするのは料理だと思う。べつに他人に振る舞って褒められるようになるとかではない。自分がおいしいと思うものを自分で作れるようになることだ。

 最近、ハンバーガーを作れるようになった。自分が外で食べる、家では再現できないと思い込んでいたあの味だが、いろんな動画を見比べながら、バンズをトーストした食パンで代用したり、ピクルスは買い足さなかったりしつつ、とにかくやってみると案外簡単に作れた。買うことでしか得られないと思い込んでいたあの味だった。感動した。これでようやく大人になったとさえ思った。

 あるものを自分で作れるようになることは、それを作ってこちらに提供する側から解放されることを意味している。限界はあるかもしれないが、意志があれば領域を広げられる。好きなものは作れるようになって、自由になろう。=朝日新聞2025年02月19日掲載