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東辻󠄀賢治郎さんの原体験につながるドラマ「未来テレビ局 ネットワーク23」

©GettyImages

「未来テレビ局 ネットワーク23」という邦題のテレビドラマが好きだった。1990年ごろにNHK総合テレビで放映されたアメリカ制作(もともとはイギリス)のSFで、ジャンルでいえば近未来ディストピアもの、今ではテレビにおけるサイバーパンクの走りとされているらしい。この作品には「マックス・ヘッドルーム」というその後有名になったおかしなキャラクターが登場するので、むしろそちらを知って(記憶して)いる人もいるかもしれない。

 あらゆる権力がテレビ局に牛耳られている「20分後の未来」の話だ。力の源泉たる視聴率をめぐってテレビ局は競争に明け暮れ、人びとは視聴者=消費者として支配されている。テレビ局の報道記者である主人公は、自局の上層部を含めた権力者の悪事や策謀を暴くために奮闘する。彼はビデオカメラを担いで駆け回り、仲間はその映像をモニタで見ながらキーボードを叩いて支援する。その第1話で、一種の人工知能でありヴァーチャル・タレントの元祖のようなマックス・ヘッドルームが画面の中に誕生する。全編を通じてブラウン管がこれでもかと視界に登場し、ライブフィードの映像のサスペンスが大いに活用された、過剰にテレビ的なテレビドラマだった。

 政治や宗教とメディアの関係とか、広告の力とか、ディープフェイクや人工知能についての先見性とか、その全部に共通するパロディ的な自己批評性とか、今から思えばいろいろと面白い作品だったと思う。しかし当時の私にとってこのドラマのクールなところは、登場するテクノロジーがひたすら即物的に描かれていることにあった。

 たとえば第1話は、高度に圧縮したCMを放映する技術が発明され、その副作用として視聴者が死ぬという荒唐無稽な話を軸に展開される。しかしその副作用は、視覚を通じて脳に過度の刺激が与えられた結果、体中の抹消神経が異常に興奮して、その活動電位を解消できない弱った肉体が破裂する、というもっともらしい話になっていた(と思う)。つまりそこには、映像が物理的効果を発揮する至極単純で夢のない「仕組み」があるのだ。

 この手の理屈や、今でいえばアナログな機構で構成されたさまざまなテクノロジーの描写は、シンセサイザーからジェットエンジンまで、原理がわかれば自分で作れるに違いないと信じている12歳くらいの子どもにはたまらなく魅力的なものだった。それは飛躍ではなく可能性の形式であり、夢のないものほど夢のあるものはないのだ。そしてその即物性の魅力は、たとえばビデオ映像のグリッチとかブラウン管の映像の歪みとか、そんなテレビというメディアそのものの即物性ともつながっていた。

 個人史的な映像の経験をたどると、人生の最初は親に連れられて行く上映会や映画館で映画を観る時代だった。その後テレビと数種の記録媒体が主役となる時代が訪れて、高校生くらいから今度は1人で映画館に通う第2の映画の時代がはじまった。大学時代にはひとしきり8mmフィルムに触れた後、しばらくしてYouTubeの時代が重なり、さらに配信が加わる。自分が映画や映像と結んできた感情の歴史には、そのときどきの場所や装置といった具体的な文脈や、その不在の徴が影のようにまとわりついている。暗闇で見知らぬ映画との遭遇に怯える時代から、チャンネルをザッピングしテープに記録する時代を経て、映像とオブセッションを切り離すことが難しい時代になった気がする。

 どんなものを観てきたのか、何が好きだったのかを思い出そうとすると、メディアとともに好きということの意味も変わりつづけていて、何から始めればいいのか途方に暮れる。少なくとも私にとってテレビの時代の一時期は、拾ってきたテレビを分解して高圧回路のあたりにドライバーを突っ込み、紫色の高圧放電の光に見惚れていたころの記憶に重なっていて、このおかしなドラマに夢中になっていたのもそのころと大きく隔たってはいないと思う。