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「ハルビン」 安重根の「貧しさと青春と体」追う 朝日新聞書評から

評者: 安田浩一 / 朝⽇新聞掲載:2024年08月17日
ハルビン (新潮クレスト・ブックス) 著者:キム・フン 出版社:新潮社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784105901943
発売⽇: 2024/04/25
サイズ: 18.8×2cm/256p

「ハルビン」 [著]キム・フン

 ハルビン駅のホームに列車が滑り込む。客車から降りてきたのは初代韓国統監を退任したばかりの伊藤博文だ。儀仗(ぎじょう)兵が出迎え、楽隊の演奏音がホームに響き渡る。騒々しい歓迎の儀式にあって、しかし、群衆に紛れ、ポケットに銃を忍ばせた男の耳には何も届かない。
 男は銃口を伊藤に向けた。照準線と伊藤が重なる。銃弾が放たれた。鉄路の脇で〝明治の元勲〟が斃(たお)れる。その場所は、暗殺者の男にとっての〝終着駅〟でもあった。
 安重根(アン・ジュングン)――朝鮮独立運動家である。1909年10月26日、当時のロシアが管轄していたハルビン駅で伊藤を暗殺した。韓国では「抗日義士」と称(たた)えられる一方、日本では菅義偉官房長官(当時)が「犯罪者」との認識を示している。国によって評価が異なるのは伊藤も同じで、朝鮮半島の側からすれば、日帝植民地支配を象徴する侵略者の親玉だ。
 本書は、そんな二人の人生が、一瞬の交錯を経て、最期に至るまでを描いた歴史小説である。
 安は1879年に朝鮮半島黄海道で生まれた。その4年前に、日本は軍艦を漢城(現在のソウル)近くの江華島に接近させ、朝鮮を挑発している。以降、日本は朝鮮半島の植民地支配に向けて動き出す。武力によって国王の実権を奪い、王妃を殺害し、1905年には第2次日韓協約を結ばせて、韓国から外交権を奪い、保護国とした。その際、保護権を行使するため日本政府が初代の統監として任命したのが伊藤だった。
 つまり、安の生涯には、日本による朝鮮侵略の歴史が刻印されている。安も義兵として抗日独立運動に参加するが、帝国主義の強固で高い壁を打ち崩すことができない。
 彼の胸奥で情念が吹雪(ふぶ)く。「伊藤の存在を抹殺する、これが自分の心の叫びだと安重根は考えた」。安は奔(はし)る。暗殺に向けた旅が始まる。
 修羅の時代を駆け抜ける安を描きながら、著者の文体(蓮池薫訳)は、どこか乾いている。淡々と安の足取りを追う。巻末の「作家の言葉」で、著者はこう述べている。
 「私は安重根の『大義』よりも、実弾七発と旅費百ルーブルを持ってウラジオストクからハルビンに向かった、彼の貧しさと青春と体について書こうと思った」。そう、本書からは義士でも犯罪者でもない、時代と葛藤し苦悩する生真面目な青年の姿が浮かび上がる。
 その「貧しさと青春と体」が刑場の露と消えたのは事件の翌年。同年、日本は韓国を併合、植民地支配という負の歴史が刻まれることになる。
    ◇
Kim Hoon 1948年、ソウル生まれ。長い記者生活を経て作家に。著書に『刀の詩(孤将)』『黒山』『火葬』など。