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「その猫の名前は長い」書評 「あ、私がいる」生身の身体と心

評者: 吉田伸子 / 朝⽇新聞掲載:2024年08月17日
その猫の名前は長い 著者:イ・ジュへ 出版社:里山社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784907497217
発売⽇: 2024/06/21
サイズ: 1.6×18.8cm/288p

「その猫の名前は長い」 [著]イ・ジュヘ

 本書を手にした時、むむむっ、となった。なんとなく純文学の香りがする。おまけに翻訳ものでもある。うぅ~、そっち系(純文学とか世界文学とか)はなんだかとっつきにくいんだよなぁ。「こんにちは」ではなく「ごめんください」と扉を叩(たた)く感じ。だから、そおっと読み始めた。もちろん、背筋は伸ばして。気持ちは正座。
 だけど、最初の一編「今日やること」を読み始めるや、あっという間に膝(ひざ)は崩れた。父親の四十九日の法要を終えた三姉妹が、川べりの散策路に広げたシートで、ビールを飲みながら、おしゃべりをする。描かれているのは、姉妹それぞれの来し方だ。
 川の流れのように、ゆらゆらと語られていく過去から浮かび上がってくるのは、ちっとも立派ではなかった父親のこと。でも、だからこそ、彼女たちの悼む気持ちが透かして見える。
 夫と妻、その気持ちの重なり合わなさを描いた「誰もいない家」、「夏風邪」。長い付き合いのママ友どうしに、コロナ感染という亀裂が入る様を描いた「わたしたちが坡州(パジュ)に行くといつも天気が悪い」。
 崩れた膝はそのままどころか、さらに柔らかく崩れていく。けれど、そんな私を咎(とが)めるどころか、「いいよ、いいよ、そのまま楽にしてて」という声が聞こえてきたのは、表題作である「その猫の名前は長い」。ちなみに、猫の名前は「クルミ・ラテ・アロニア・バロネス三世」。かなわなかった二つの愛と、ラテ色をした猫の姿と。
 読んでいる間中、あっ、ここにも、あそこにも、私がいる、と思う。やり場のない想(おも)いを無力な〝弟〟にぶつけてしまう「ヌナ」。友人が記憶している自分と、本当の自分との乖離(かいり)にもやっとする「h」……。傷ついたり傷つけたりしながらも生きていく、生身の身体と心が、そこにはある。
 作者と本書への理解が深まる、巻末の大阿久(おおあく)佳乃さんの解説も必読!
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Lee Juhye 作家、翻訳家。韓国のチャンビ新人小説賞を受賞し、作家活動を始めた。著書に『すもも』『ヌの場所』(いずれも未邦訳)など。