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大槻ケンヂさんの読んできた本たち 「本のほうから『これを読め』っていうビームが出るんですよね」

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「ミステリにはまった少年時代」 

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。

大槻:コナン・ドイルの『緋色の研究』ですね。子供向けに訳されていて、『赤の怪事件』と改題されていたものです。久米元一訳とのことですがすごい意訳ですよね。それを読んだのが小学校2年生くらいだった記憶があります。買ってもらったか、兄が持っていた本でしたが、読んで強烈に面白いと思いました。その後に兄が借りてきたかなにかした江戸川乱歩の『魔術師』を読んだんです。乱歩が大人向けに書いたものを子供向けにリライトした、ポプラ社の少年探偵団シリーズの中の1冊でした。これがもう決定的でしたね。なんてことを書くんだって思ったのを憶えています。

――なんてことを書くんだ、というのは。

大槻:いちばん憶えているのが、肌寒い日に隅田川を泳いでいる人がいて、なんと酔狂なことかといって人々が立ち止まって見ていると、あれは泳いでいるんじゃないぞ、生首だ、と。小さな船に生首がのせられていて、こっちに流れてくるんです。それでみんなぎゃーっとなる。船首には獄門舟と記されていんですが、これは「ごくもんふね」とルビを振っている本と「ごくもんせん」と振ってある本があります。その場面で、子供向けの本になんてことを書くんだと思いました。その頃、乱歩の少年探偵団シリーズは26巻までは子供向けに書かれた怪人二十面相のシリーズで、それ以降は大人向けに書かれた小説が子供向けにリライトされたものだったんですね。その後権利の問題かコンプライアンスの問題かで発売されなくなったんですが、僕が子供の頃はそれがまだ読めて、その『魔術師』はシリーズ後半の本でした。

 考えてみると『緋色の研究』と『魔術師』って、ちょっと似ているんですよね。復讐の物語っていうところが。今読んでも面白いなと思いますね。

――それまで絵本や児童書なども読まれていたのでしょうか。

大槻:絵本は読んでいたと思います。パンジャが出てくるのってなんでしたっけ...。あ、『ジャングル大帝』ですね(パンジャは主人公の白いライオン、レオの父親の名前)。それの絵本を夢中になって読んでいたとは聞いているんですけれど、自分ではまったく憶えていなくて。やっぱり本に夢中になったのは『緋色の研究』と『魔術師』からですね。

 わりと本は買ってもらえたと思います。本を読んでいると「賢い」といって褒められたんですね。褒められるんで嬉しいというのもあって、さらに本を読むようになったんだけど、あれは今にして思うと、男兄弟2人だったのでうるさかったんでしょうね。本を読ませておけば賢二が静かになるってことで読書を推奨されていたんじゃないかと近年気づきました。

――本を読んでいない時間は活発な子供だったのですか。

大槻:そういうわけでもなくて。学校ではひょうきん者だったんですけれど、どちらかというと内に閉じこもる性格で、それがまた読書向きだったのかもしれません。

――子供の頃に少年探偵団のシリーズを読んだ人って、たいてい子供向けのホームズやルパンのシリーズにも手を伸ばす印象があるのですが、いかがでしたか。

大槻:そうですね。ミステリというものに興味が出て、子供向けのそういう本を読んで、夏休みの宿題でなにか推理小説についてレポートを出したことがありました。世界にはこんな探偵がいるということで、メグレ警部とか隅の老人とかについての解説を書いてましたね。

――小学生の頃にもう「メグレ警視」シリーズや『隅の老人』をお読みになっていたのですか。

大槻:一応読んでいました。小学生で本に興味を持つようになって、最初はお金がないので図書館なんかにも行っていたんですが、小学4、5年生になるとお小遣いでちょっと文庫本が買えるようになったんです。その頃にちょうど横溝正史や森村誠一が原作の角川映画のブームが来たんですよ。特に横溝正史の角川文庫は持っているだけで嬉しかったですね。不気味な雰囲気がよかった。本を読むのも好きだったけれど、本を所有する喜びってありましたよね。今でいうとフィギュアを集めるような気持ちなんでしょうかね。当時の一部の小学生の間では、背伸びして文庫本を持っているのが格好いい、というのがありました。それで頑張って、横溝正史の『犬神家の一族』とか『獄門島』とか『本陣殺人事件』、森村誠一の『人間の証明』とか『野性の証明』を集めました。楽しかったですね。それで思い出しましたけれど、全3巻の鮎川哲也編集『怪奇探偵小説集』があって、そういうのを夢中で読んでいました。やはり乱歩から入ったので、猟奇的なムードが好きでした。

 ちょうどその頃、よくラジオで本の宣伝をしていたんですよ。森村誠一、横溝正史、平井和正の本はよくラジオCMで耳にしていました。平井和正の「ウルフガイシリーズ」のCMはラジオドラマ調で「ワオーン!」とか叫んでいましたよ。

――好きな探偵などはいましたか。

大槻:やっぱり金田一耕助です。映画では石坂浩二の演じた金田一はよかったですね。非力な感じなんだけど、いざという時に前に出てくる。風のように現れて、風のように去っていくっていう。明智小五郎は、びしっとする前の、『D坂の殺人事件』の頃の書生スタイルの明智のほうが好きです。あと、コロンボも好きですね。ちょっとよれよれしていて弱そうなんだけれど、いいところで活躍するっていうタイプのほうが親近感を持った。

――ラジオもよく聞いていたのですか。

大槻:聞いていました。僕の家はわりとテレビのルールが厳しくて、土曜日だけドリフの「8時だョ!全員集合」は見られましたけれど、あとは7時から8時までしかテレビが見られなかったんです。それ以外の時間は勉強部屋と称した狭苦しい部屋にいるしかなかった。それで、やることがないんで、中学生くらいになると深夜放送を聞くか、本を読むしかなかったんですよ。スマホとかもちろんないから。

 親のいない時にテレビをつけて、たまたま「ウルトラセブン」の再放送が見られたりすると「ラッキー!」みたいな感じでした。でも「刑事コロンボ」のドラマはたまに見せてもらえました。あのドラマを小説化した本も出ていたので、よく読みました。『殺人処方箋』とか『別れのワイン』とか『溶ける糸』『ルーサン警部の犯罪』とかを憶えています。「溶ける糸」は「スター・トレック」のスポック、レナード・ニモイが犯人役だった。「ルーサン警部」はスタトレのカーク艦長が犯人役でね。

 中学生くらいになるとお小遣いももうちょっともらえるようになったので、チャリンコで近所の本屋さんや古本屋さんを巡って文庫本を買ってくるんですよ。東京だったので書店とか古本屋さんがいっぱいあったんですね。チャンドラーの『長いお別れ』なんて中学生がわかるわけないのに、若いから最後まで読み切っちゃうんですよね。『長いお別れ』はよくわかんなくて、大学の時にもう一回、その後にもう一回、3回読んだけど、今だに内容よくわかんないんだよね。エラリー・クイーンの『Yの悲劇』なんかも難しかったけれど全部読めた。今思うとよく読んだなあ...。

――名作を押さえている印象ですが、本の情報ってどのように入手していたのですか。

大槻:本屋小僧だったので、ずっと本屋さんにいるわけですよ。文庫本の棚の前でじっと見ていると、だんだん「これは読んどかなきゃいけない本だ」とか「これはマスターピースなんだろう」と分かってくるんです。それと、新刊が出ると、本のほうから「これを読め」っていうビームが出るんですよね。それを選んでいれば外れがないっていう時期がありました。最近ちょっと衰えてきちゃって、本があまり呼んでくれない。本から出るビームを受け取れなくなってきちゃったんだよな...。

 読んでいる本に『Yの悲劇』が出てきたりして、これは読んでおかなきゃいけない本だなと知ることもありましたね。日本のミステリ作品では『虚無への供物』と『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』は読むべきなんだな、などとわかってきて、一応買って頑張って読んでみるっていう。『ドグラ・マグラ』は最初、上巻で挫折して、2度目で中巻までいって挫折して、3度目のトライで全部読み切ったかな。あれは面白かった。

 文学なんかも、わかりゃしないのに押さえなきゃいけないと思って、それなりのものを買って読んでいました。「なんだこりゃ」というのもありましたけれど。

 僕、中学高校時代、学校で一分一秒も勉強しなくて、塾行っても勉強しなかったんで、このままでは本当に本当の馬鹿になると思って。せめて自分なりになにか勉強しなきゃいけないっていう気持ちがあって、それで本を読んで映画を観ようと思ったんですね。学校でも教科書の陰で文庫本を開いて、1時間目から6時間目まで読んでいました。若いからそれで1冊読み切っちゃうんです。一度先生に見つかったんですが、その時に読んでいたのが安部公房だったんです。先生が「なにやってんだ」って言ってぱっと本を取り上げて、安部公房だというので「おっ、お前こういうの読むのか...やるな」といって感心してくれた。

 その先生にもう1回見つかったんですよ。それがカート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』だったんです。あれも名作なんだけれど、その頃の『タイタンの妖女』の表紙って今と違って、もっとSFアドベンチャーものぽかったんですよ。その時は本を返してもらう時に、先生が「お前ちょっと格が下がったんじゃないか」みたいな感じで、いやそうじゃないんだヴォネガットっていうのはある意味文学的なんだしSFで何が格が下がったっていうんだよ、と心で思いながらも何も返せなかったのを今思い出しました。

「SF小説、漫画の影響」 

――SFもよく読まれていたのですか。

大槻:昭和40年男あるあるなんですけれど、小中学生の頃に星新一先生のショートショートに出会うわけですよね。『ボッコちゃん』とかさぁ。それでさらに読書の楽しみを知って、その後、筒井康隆先生を読むんです。『農協月へ行く』とか『にぎやかな未来』といった短篇集や、『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の七瀬シリーズとか。あのあたりを読んで衝撃を受けました。その流れで、当時やはり流行っていた平井和正先生の『ウルフガイ』シリーズをよく読むようになりました。犬神明という主人公が狼男のシリーズです。少年犬神明を主人公にしたウルフガイシリーズと、大人の犬神明を主人公にしたアダルトウルフガイと2つあった。

 中学時代は星新一、筒井康隆、平井和正の他には眉村卓も読んだ。『ねらわれた学園』とかね。小松左京も難しかったけれど読んだかな。『復活の日』『日本アパッチ族』とか。そういう先生たちの本を読むと必ず、この本いいな、と思うものが出てくるじゃないですか。それで高校生になると、ハヤカワ文庫の水色の背表紙や白色の背表紙あたりを読むようになるんです。アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』とかロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』とか。あとレイ・ブラッドベリとかね。『10月はたそがれの国』は創元推理文庫だったかな。思い出すと...ジョン・ウインダム『さなぎ』『呪われた村』、ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』、ディック『流れよわが涙、と警官は言った』、ジャック・フィニイ『盗まれた街』、ヴォネガット『猫のゆりかご』『スローターハウス5』、オラフ・ステープルドン『オッド・ジョン』、テッド・ホワイト『宝石世界へ』、オールディス『地球の長い午後』、ハインライン『異星の客』、フレドリック・ブラウン『天の光はすべて星』...なつかしい、青春です。

――読書の中心はミステリとSFだったんですね。

大槻:やっぱり推理小説とSFっていうのは、非文学、アンチ文学という面がありましたね。そういう大きな世界があって、その世界の中でもクラシックと呼ばれるものとニューウェーブと呼ばれるものがあるんだとわかってくる。クラシックもばんばん出ていたし、新しいものもばんばん出てきて、非常にいい時代でした。いちばん本を読む時期に、そういうのが体験できたのはよかったなと思います。でも本当のマニアにはかなわないっていうのを思い知らされた時期でもありました。中高生時代、俺はSFでもミステリでもマニアの世界には入り込めないな、「広く浅く」だなと思っていました。

――勉強はまったくしなかったとおっしゃってましたが、国語の授業とか作文はあまり印象に残っていないですか。

大槻:現国は好きでしたよ。明らかに文系の子供でした。国語の教科書に載っているような作家も一応読みました。井伏鱒二の「山椒魚」が結構考えさせられるなと思ったのは憶えています。芥川龍之介もよかったですよ。短いし読みやすいし、ちょっとおどろおどろしいし。

 でも夏目漱石なんかは、ちょっと時代が古いぞ、という感じがありました。僕は中村雅俊が教師役で主演したドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」が夕方4時に再放送されているのを見て育った世代なんですよ。あれはもう完全に、下敷きが『坊っちゃん』なわけです。だから『坊っちゃん』を読んでも、「なんだこれ『ゆうひが丘の総理大臣』じゃないか」っていう。古いよ、もっとアップロードしたやつを見てるよ、みたいな気持ちでした。結局、あの頃の先生もののドラマって、みんな『坊っちゃん』でしたよね。

『こころ』も一応読んだんですよ。でも何かわかんなかった。てか、あんな長い手紙書いてくるやつは迷惑だよ! 一応いろいろ文学にも挑戦したんですけれど、わからないものが多かった。三島由紀夫の『金閣寺』はやべえって思いましたけれど。川端康成の『伊豆の踊子』は普通に泣ける話だなと思ったのは憶えている。あと『雪国』のエンディングのバッサリ終わる感じがすごいなと思いましたね。当時、僕は少年漫画も好きだったんですが、僕の好きな漫画ってちょっとマニアックで、連載が打ち切られることが多かったんです。いきなり話が終わることが多かったので、『雪国』を読んだ時に、ちょっと「ジャンプ」の打ち切り漫画みたいだなって思いました。僕の世代ならではの連想ですね。『ヘミングウェイ短編集』は好きだった。戦争帰りでボンヤリしている若者の話とか、学生の頃自分と重ねたもんです。あ、高校の頃『老人と海』で校内感想文コンクールで一位になった。あれ、老人がライオンの夢を見てるでしょ、だから「ライオンの夢なんて見たことない」って一行目で始めたら、先生に受けてもらって。いろんなエッセイを読んでたから、読者に受けてもらう書き出し方を心得てたんですよ。

――漫画で、影響を受けたと思うものはありましたか。

大槻:それはもう、永井豪先生の『デビルマン』です。あれに出会ったのは小学校2、3年生の頃だったのかな。読書体験として、あの衝撃を超えるものはないです。『デビルマン』の最終回が僕のすべてを決定づけましたね。主人公の不動明の身体が半分に切れて、サタンの飛鳥了と二人で並んで喋るシーンがあって、その二人を消滅させるために神が迫っている、というところで終わるんです。善と悪をひっくり返していて、もうコペルニクス的発想の転回というか。

 残酷描写にしろ何にしろ、すべて『デビルマン』が原点ですね。『デビルマン』に始まり、『デビルマン』に終わると言っていいくらい。僕は小説を書く羽目になって『新興宗教オモイデ教』を書いた時、それまでいっぱい観てきた映画も頭にあったけれど、やっぱり永井豪先生の作品を意識していたところがあります。『バイオレンスジャック』『イヤハヤ南友』『魔王ダンテ』...。もちろん、永井豪漫画には遠く及びませんけれども。そうしたら、文庫版で永井豪先生が漫画で解説を描いてくださって、あれは本当に嬉しかった。

 もう一人は、諸星大二郎先生です。少年ジャンプの手塚賞に突然「生物都市」って諸星先生の作品が載って、その次の回の赤塚賞はコンタロウ先生じゃなかったかな、両方とも漫画として革命的に新しかった。諸星先生の短篇漫画の影響は強烈に受けていますね。短篇集は数限りなく出ているし、出版社によって収録されている作品が違うんですけれど、どれを読んでも面白いです。僕は『不安の立像』とか、『夢みる機械』といった短編集なんかを読みましたね。

 それと、高校生の頃にサブカル好きの男子が少女漫画を読むのがイケているという風潮があったんです。その頃はまだオタクって言葉は一般的じゃなかったと思うけれどオタク的な雑誌が多少あって、そういうのを読んでいると、このへんを押さえておけっていうのがいくつか出てきて、そういう流れだったんじゃないですかね。なぜか「別冊マーガレット」と「LaLa」を読んでいる奴はいっぱしだっていうヘンなブームがあった。それでオタク男子も萩尾望都先生と大島弓子先生と山岸凉子先生と竹宮恵子先生とかを読んでいた。僕は大島弓子が大好きだったんだけど、そうするとやっぱりブラッドベリの影響があるなとか思うわけですね。大島弓子は『綿の国星』がリアルタイムで大好きでした。コミックスで買うとついてくるちょっとした短篇も好きでした。「赤すいか黄すいか」とか。「たそがれは逢魔の時間」とかは猛烈に素晴らしいと思いました。他に『ダイエット』とかね、どれも名作過ぎて、ア然としながら読んでいた。

 そうしたオタク系の雑誌で紹介されていたから安部公房みたいな作家も読んだんじゃなかったかな。あの頃は寺山修司も好きでよく読んでいたんですけれど、今読むとさっぱりわからないですね。あの頃はビンビン響いていたのに、不思議ですよね。あの時期に読めてよかったなと思います。

――安部公房や寺山修司は何を読んでいたのですか。

大槻:安部公房は『他人の顔』とか。『箱男』はね、何がなんだかわからないながらに、なんかすげえなって思った記憶があります。

 寺山修司は、競馬ものと戯曲以外はたいがい読んでますよ。『書を捨てよ、町へ出よう』とか『家出のすすめ』は夢中で読みましたね。なんか青春の病みたいなもので、その年頃で読むとガーンときちゃうんですよね。もしももう少し生まれる時代が早かったら、僕は間違いなく寺山修司のところ、つまり「天井桟敷」に行って、「とにかく何かやらせてくれ」って言っていたと思います。

 寺山修司が書いたものってほとんど先行作品のコラージュだったと言われていますよね。それが上手かったっていう。で、寺山の「起こらなかったことも歴史のうちである」なんて言葉を読んでガーンときていました。今でいう転生ものじゃないけれど、現実にはなくてもマルチバースではあるかもしれない俺の現実みたいなものがある気がしていました。家出をしていたかもしれない自分とか、ボクサーになっていたかもしれない自分とか、そういうあったかもしれない自分を考えて、一人青春の悶々をしていました。

 それと、僕は漫画原作者の梶原一騎直撃世代なんです。僕らの時代に少年漫画誌に連載されていた『空手バカ一代』なんかは、大山倍達という空手家の生涯を描く漫画なんですね。のちに検証されて、そのほとんどが嘘だったってわかったんですよ。でも当時、僕らは全部信じていたんです。実際には起こらなかったことが、僕ら読者の世界には実際に起きたことになっていた。

 もうひとつ、梶原一騎原作で大山倍達やプロレス界のことを描いた『四角いジャングル』っていう漫画があったんですけれど、これは強烈で、ほぼ梶原の妄想で描かれているんです。けれど妄想が現実を追い越したんですね。漫画ではミスターⅩという空手家を登場させて試合をするんですが、現実でも、本当にミスターⅩという空手家が登場して、アントニオ猪木と闘うことになったんです。これがまた世紀の大凡戦と言われてる、ひどい試合だったんですけれど。

 寺山修司も嘘ばかり言っていたんですよね。自分のお母さんのこととか、自分の出生とかも、本によって全然違うんです。現実とは違うけれど、あったかもしれない自分を書いていて、それで面白ければいいじゃないかっていう。

 その時はよくわかっていなかったけれど、ある意味、「マトリックス」ですよ。「マトリックス」よりも何年も前に、僕らの世代は梶原一騎と大山倍達とアントニオ猪木と寺山修司によって「マトリックス」を体験したんですよね。仮想現実とかマルチバースとかといったものを、フィリップ・K・ディックやウィリアム・ギブスンとかではなく、梶原一騎、大山倍達、アントニオ猪木、そして寺山修司によって教えてもらっていたんだな、って思いますね。

「映画館に通う」

――映画もたくさん御覧になったとのことですが。

大槻:本もそうだけど、なんか少年の頃、時代的にも映画信仰みたいなものがあって、映画をたくさん観ていればそれなりの人間になるんだみたいに多くの人が思っていたと思うんです。あの頃は自分の肉なり骨なりにするために観る、みたいな気持ちがありました。

 でも、今って配信でみんなバンバン映画を観ているじゃないですか。別に映画にはそんなに興味ないよっていう人でもいろいろ観ていて、本当に敵わないですよ。だからってみんなクリエイターになってるわけじゃないので、映画をたくさん観てもクリエイティブになるわけじゃないんだって気づいて、なんか最近アイデンティティクライシスじゃないけれど、ちょっとショックを憶えています。

――配信もなくて何度も繰り返して観られないぶん、一回ごとにすごく集中して観ていたのでは。

大槻:そうなんでしょうかねえ、名画座で集中して観ていました。オールナイト上映にも行っていましたね。今思うと、なんであんなに集中して映画を観たり本を読んだりできたのか不思議ですね。本だって1日で1冊2冊は読んでいたもん。

――映画の上映情報はどこで入手していたんですか。

大槻:「ぴあ」と「シティロード」と、あとは名画座に行くと上映情報の載ったチラシとか、無料の小冊子とかがありましたよね。池袋文芸坐とかにね。それで中高時代は、吸い寄せられるように本屋と古本屋と名画座をぐるぐる回っていました。

――その頃は名画座もたくさんあったのでは。

大槻:ありましたね。「ぴあ」か「シティロード」という雑誌を持っていくと500円で映画2本くらい観れたんです。下手すると350円で2本観れるところもあった。それで自転車に乗って、中野だとか池袋、高田馬場、新宿あたりの名画座に通っていましたね。

――池袋の文芸坐とか...?

大槻:そうそう。池袋は文芸坐と文芸坐地下とか、ル・ピリエとか、早稲田松竹とか。高田馬場にはパール座というのがあったし、中野には中野名画座や中野武蔵野ホールがありました。新宿はテアトル新宿がまだ名画座だったと思う。新宿ローヤルという名画座もありました。ここはアクション映画ばかりやってた。レンタルもあったけれど、ビデオが1泊1000円とか1200円でしたからね。とてもじゃないけれど借りられなかった。借りるようになったのは大人になってからです。

 とにかく名画座でたくさん観ました。だんだんマニアックな方向にいって、「ぴあ」のフィルムフェスティバルの入選作とか、字幕もついていない直輸入の映画の上映会とかにも行っていました。狭いスタジオに体育座りさせられて、スクリーンがないなと思っていたら、そんなに大きくもないテレビとビデオデッキが運ばれてきてスタッフの人がうやうやしくVHSを持ってきてガチャッと入れて、「え? これで観るの?」と思ったらそうで。それでみんなでデヴィッド・クローネンバーグ監督の「ビデオドローム」を観たこともありました。そういうのも行くようになるともう、冥府魔道のサブカルオタク街道ですね。自主映画の上映会にもよく行った。今関あきよし、犬童一心、手塚眞監督などの初期作品とか観に行った。

 あと、本当はいけないんですけれど、小学生の頃からいわゆるポルノ映画ピンク映画も観に行ってました。ポルノ映画は4本立てとかなんですよ。今にして思うと、そういうので観ていたポルノ映画って、井筒和幸、高橋伴明、森田芳光といった今や巨匠と呼ばれている人たちが撮っていたんですよね。「おくりびと」でアカデミー外国語映画賞を撮った滝田洋二郎の作品では「はみ出しスクール水着」っていうのは馬鹿エロコメディで、とってもくだらなかった。でもあとから知ったんですけれど、それの音楽を僕の友達がやっていたんです。僕は友達にものすごく上手いミュージシャンが多かったんですが、そいつらは高校くらいからアルバイトでポルノのレコーディングとかをしていたんです。それで、「はみ出しスクール水着」の話になった時に、「それ、俺音楽やったわ」って話になって。

 高校の時も、僕は暴れるタイプの不良ではなくて、やさぐれてしらけた嫌な感じの不良生徒で、修学旅行先の京都でドロップアウトしてピンク映画を観に行こうとしたんですね。恥ずかしいんですけれど、自分なりの反抗のつもりで。それで観ようとしたピンク映画のポスターを見たら、友達の名前があって。その映画の音楽も友達がやっていたんです。そうこうしているうちに先生につかまって、結局その映画は観られなかったんだけれども。「穴のにおい」ってタイトルだった。

――本や映画の情報を共有できる人は周囲にいましたか。

大槻:映画なんかは、後になって誰かと話していると「あの時の変な上映会に俺もいた!」「え、いたの?」みたいなことになって、それはサブカルあるあるですね。

 本について話す人はほぼいなかったんですけれど、筋肉少女帯の初代ドラマーの鈴木直人君は小学校が一緒で、彼はいろんなものが好きで、小説も好きだったのでそういう話ができたかな。

 あ、思い出した。筋肉少女帯のアルバムデザインなんかをしてくれた占部君という同級生が、もう亡くなっちゃったんですけれど、多少小説を読む人だったのでよく話しましたね。それと、池の上陽水という名前でミュージシャンをやっていた羽場達彦君も、若くして亡くなっちゃったんですけれど、彼も本が好きでよく話しました。羽場君はジェフリー・アーチャーの『百万ドルをとり返せ!』なんかを読んでいました。僕も借りて読んだ。ウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』を貸してくれたのは占部君だったかなあ、羽場ちゃんだったかな...。

――『エクソシスト』といえば、ホラー小説やホラー映画は好きでしたか。

大槻:好きでした。小さい頃は怖かったんだけれど、中学生くらいの頃に頑張ってホラー映画を観に行って、恐怖を乗り越えてからは好きになりました。1992、3年くらいまではわりと観に行っていたかなあ。でも、2000年代に入ってからだんだんホラー映画の残酷描写がリアルなものになっていったんですよね。昔の残酷描写ってちょっと笑っちゃうところがあったじゃないですか。今のものってあまりにもリアルで、おぞましくて、ちょっと観ていられなくなりました。最近はまたちょっと観に行くようになりましたけれど。

 ホラー小説は、ホラーというかラヴクラフトの『インスマウスの影』とかね。ベタだけどスティーヴン・キングとか、読んでいました。キングの『シャイニング』とかも上下巻でちゃんと読んだもんな、なんであんなに読み切るパワーがあったんだろう。

――『シャイニング』はキューブリックの映画もありますよね。キングご本人は気に入ってなかったそうですが。

大槻:キングはもっとポップな馬鹿馬鹿しいものが好きで、キューブリックの映画はちゃんとしすぎて嫌だったんじゃないかなあ。ホラー映画だと「シャイニング」も好きだったけれど、僕は「悪魔のいけにえ」とか「ゾンビ」とかが好きでした。

 世の中で僕だけが好きなんじゃないかっていう、若者向けの「ファンタズム」というホラー映画があったんです。第1作が僕が中学生だった1979年公開で、低予算の映画だけど結果的に第5作までできたんです。主人公が僕と同世代で。トールマンという背の高い謎の男が現れて、シルバー・スフィアっていう銀の球体が襲ってくる不条理ホラーで、僕はとても好きです。その頃って、映画のノベライズがいっぱい出てたんですよね。その流れで「ファンタズム」のノベライズもあるらしいんですね。あれをどうやって小説にしたんだろうと思って、その本は今でも探しています。

――若者向けといいつつ、めっちゃ怖いんですか。

大槻:いや、怖くもないです。ただ、たとえば「2001宇宙の旅」って不条理がゆえにみんなが考察する映画になったじゃないですか。あれは今の映画考察ブームの先駆けだと思いますが、「ファンタズム」はさらになんだかよくわからない映画だったんですよ。ただ作り手が下手なだけだったかもしれないけれど、僕は当時、「ファンタズム」を「2001年宇宙の旅」のように、何か深いものがあるんじゃないかと思って観ていたんですよね。僕にとっての「2001年宇宙の旅」だったの。

 続編はどんどん予算がなくなっていって、どんどん酷い映画になっていくんです。でもね、「ファンタズム5」のラストは、なんかジーンとくるんですよね。最後は主要キャストしか出てこなくて、そこがなんというか、いろいろあったけれど、俺たちにはこの「ファンタズム」という映画が青春だったんだな、これしかなかったんだよ、という、彼らの諦観と自己肯定感が入り混じって、なんか切ない。ずっとシリーズを観てきた人にもジーンとくる終わり方なんです。

 なんか、いろいろ思い出してきました。ショーケン(萩原健一)の「青春の蹉跌」という映画を観て、石川達三の原作を読んだりもしたなあ。

――小説が映画化される時って、原作を先に読むか映画を先に観るか迷ったりしますよね。

大槻:ありますよね。「野性の証明」なんかは原作を先に読んでいたけれど、映画は原作の話が終わったところから一番面白いところが始まるんですよ。

――「野性の証明」って、高倉健さんや薬師丸ひろ子さんが出ていた作品ですよね。元自衛官の男が、虐殺事件の生き残りだった少女を引き取るのだけど、実は...という。

大槻:そうそう。薬師丸ひろ子の演じる娘が、本当のことに気づくところで確か小説は終わるんですよ。映画ではそのあと、高倉健と悪い自衛官との戦いが始まって、その部分が一番の観せどころなんです。それってスゴくないですか? あそこまで話を付け足すのはすごかったな。

 それでいえば、もうひとつ忘れられないのが、「スター・ウォーズ」ですね。あれはもう、日本公開の1年前からテレビとか雑誌で話題になっていて、映画公開よりも先にノベライズ版が出版されて、僕はそれを先に読んじゃったんですよ。うかつでしたね。映画を観て、「いやもうここでハン・ソロが助けに来るって知ってるから」ってね。あれは、自分が知ってることを確認しに行く作業みたいなものでしたね。

 あ、確認する作業というのでひとつ思い出しました。

「アジア旅行記、オカルト本」

――思い出したというのは、なんでしょう。

大槻:僕の中高大学時代は、若いもんが海外旅行なんてなかなか行けなかったんですよね。特にインドなんて行けなかった。僕はアジアの旅行記が大好きで、バックパッカーたちの聖典みたいに言われていた蔵前仁一さんの『ゴーゴー・インド』とか『ゴーゴー・アジア』、沢木耕太郎さんの『深夜特急』、下川裕治さんの『12万円で世界を歩く』、妹尾河童さんの『河童が覗いたインド』といったアジア放浪本を相当読んでいたんですよ。

 それで、23、4歳の頃にはじめてインドに行ったんです。「本に書いてある通りだな」っていうのが一番の感想でした。本に書いてあることを確認しに行った旅みたいになっちゃった。蔵前さんの本なんて、ご本人がイラストレーターだから克明な絵が描かれてありますしね。昔はカルカッタと呼ばれていたコルカタの、バックパッカーたちが集まるサダルストリートという安宿街に物乞いの人がたくさんいるっていうことも本で読んでいたから、行ったらショックを受ける前に「ん? 書いてあった通りだな」って思った。確認の旅になっちゃったのは失敗でした。本も読めばいいってものでもない。でも、それから30年40年経ってますから、今行くとまた全然違うんでしょうね。

 そういう旅行記を読みつつ、エッセイもたくさん読みました。80年代くらいには昭和軽薄体なんて言われかたもした、「~しちゃったんである」みたいな書き方のライトエッセイですね。椎名誠さんとか、嵐山光三郎さんとか、南伸坊さんとか。椎名さんで最初に読んだのは『さらば国分寺書店のオババ』だったかな。そこから『哀愁の町に霧が降るのだ』や『インドでわしも考えた』など、もう、超読みましたね。

 そういう、難しいことを簡単に分かりやすくお喋り文体で書く、みたいなことが80年代にものすごく流行って、中島らもさんもその流れの一つに入れてもいいのかもな。そのあたりは僕はもう本当に影響を受けました。

――ノンフィクションはよく読みますか。

大槻:ノンフィクション、とは言いがたいんですけど...30歳手前くらいの頃に、UFOとかそれ系のオカルト本が出るとわりと買う、という時期がありました。92年くらいかな、と学会というのが設立されたんです。このあいだ亡くなったSF作家の山本弘さんなんかが立ち上げて、たとえばオカルト本などを懐疑的に読んでいくっていう集まりです。その現象が実際はどうなんだっていうのを突っ込みをいれながら読んでいくんですよね。僕もそういう、とんでもないことが書いてあるオカルト本を面白がる懐疑派としていろいろ読んでいました。

 最初に、新人物往来社から出た、稲生平太郎さんという方の『何かが空を飛んでいる』を読んだんですよね。喋り口調の文体で、UFO現象をひとつの都市伝説、民間伝承ととらえて、そうした伝承はなぜ生まれたのかを考察していくんです。UFO現象は妖精や妖怪といった伝承とどこがどう合致するのか、みたいなことも書かれてあった。そういう考え方は海外にはあったんですけれど、日本ではそれほど知られていなかったんですよ。それまでUFOについては、空飛ぶ円盤や宇宙人が本当にいるのかどうかという論争が主だったんですよね。そうした「いる」「いない」ではなく、UFO現象という物語をどう解釈するかという考え方が、当時の僕にはものすごくショッキングで、そこからズルズルっと入っちゃいました。

 この方ももう亡くなっちゃったんですけれど、志水一夫さんというオタク的なものを論評する人が書いた『UFOの嘘』という本もありました。UFO番組なんかにどれだけ演出が施されているのかを勉強していく本で、これも斬新だった。志水さんはと学会の会員だったので、そこからと学会の人たちの怪しげな事件に対する興味の持ち方に僕も興味を持ったんです。一時期、と学会本は出せば売れる状態で、ものすごくたくさん本が出ていたので、それもあってあまり小説を読まなくなっちゃったのかな。

 コロナの時には陰謀論懐疑派の本がたくさん出ましたけれど、そういうのも面白く読みました。Qアノンについてとか。最近はオカルトに対して、ビリーバーとは言わないけれど、そこまで否定派でもなくなってきています。ないこともなくもないかもしれないな、くらいにはなってきているかな。

「文筆業について」

――ご自身で文章を書き始めたのはいつ頃ですか。

大槻:僕が最初に小説を書いたのが小学校2、3年生の頃でした。それはバラバラ殺人の話で、親に赤字で誤字脱字を全部添削されたっていうね。添削するのはそこじゃないだろうと思いましたよね。

 その後は小学生の時に友達の遠山君とSF小説を連作で書いていました。その時、僕は伏線を張ったんですよ。たぶん『犬神家の一族』の影響だと思うんですけれど、ゲートルを巻いた謎の男を登場させたんです。そうしたら遠山君が、「突然出てくるこれはなに?」って言って、伏線というのを理解してくれなくて。それで途中で終わっちゃったことを憶えていますね。その後は中学の頃に、筋少の内田くんと漫画を一緒に描いて、これも途中で終わっちゃった。

 あ、思い出しました。「ビックリハウス」にエンピツ賞というのがあったんですね。文学賞の敷居を外してなんでも書いてこいという賞があって、中学生の時だったかな、その選外佳作になったことがありますね。審査員が糸井重里さんで、原稿用紙ではなくノートの切れ端に書いてくる者がいたけれど、それはよくない、みたいなことを書かれていて。ノートの切れ端に書いて応募したのって僕だったんですよ。だからもし原稿用紙に書いて応募していたら佳作くらいにはなったかなと思ったりして。

 あとは高校の頃に、蛭子能収さんの影響を受けて、13~4枚くらいのシュールな漫画を描いたことがあります。「オマンタのイケニエ」ってタイトルだった。その頃、白夜書房がエロとサブカルを混ぜ合わせたような雑誌を出していたので、そこに持ち込もうとして電話したら、午前中だったのでまだ誰も編集部に来てなくて、それで心が折れてやめたことがあります。

――その後、雑誌でエッセイをいろいろ書かれるようになりますよね。

大槻:80年代、90年代は、ミュージシャンがエッセイを書く機会が多かったんですよ。当時は「ビックリハウス」とか「宝島」といったサブカル雑誌があって、みうらじゅんさんとか、中島らもさんとか、いろんな人が書いていた。杉作J太郎さんのコラムも楽しみに読んでいましたから、自分もそうしたものが書けるとなった時は、嬉しかったですね。

 あの頃、「週刊プレイボーイ」に対して「平凡パンチ」という雑誌があったんですけれど、だんだん部数が落ちてきたからか突然雑誌のスタイルを変えてサブカル寄りになった時期があったんです。「NEWパンチザウルス」っていう名前になって、すぐに休刊しちゃったんですけれど、その「NEWパンチザウルス」がめちゃくちゃよかったんです。ちょっと焼けクソ気味に作っていたという感じがした。そこで杉作J太郎さんがイラストと文章で面白いものをたくさん書いていましたね。どう考えてもおかしいだろうってことを、真面目に語っていて、ぷっと笑っちゃいながらも「でもそうだよな」って感心してしまうところもあって、あれは影響を受けました。あと、宮沢章夫さんの『彼岸からの言葉』『牛への道』とかも面白いエッセイ集でした。杉作さんと宮沢さんのエッセイみたいなものを自分も書こうと思って書いていた時期もありました。

――小説を書いたのは、編集者から「書きませんか」と言われたのがきっかけだったそうですね。

大槻:あれは若さゆえの無鉄砲というか、何も考えていなかったというか。90年代初頭かな、僕が23、4歳の頃にミュージシャンに文章を書かせるブームがありまして。「月刊カドカワ」という雑誌が中心になっていた。それで僕にも話がきたんです。編集さんが「オーケンちょっと小説書いてよ」って言って下さって、本当に何も考えていなかったから、気軽に「いいですよ」って言っちゃったんですよね。

 編集さんが「前田日明がタイムスリップして力道山と闘うみたいな話はどう?」って提案してくれたんですけれど、「それもいいけど自分で思いついたものを書いてみます」と言って、原稿用紙24枚分くらいの「新興宗教オモイデ教」をスケッチブックにダーッと書いたらば、「好評だったから続きを書いてよ」ということになって。「え? あれは短篇のつもりだったんですけれど」と言ったら「いや、なんとかなるでしょ」と返され、「そうですか」と言ってまた書いちゃったんですよね。それが1冊の本になったら評判がよくて、「また書いてよ」となって、「はあ」と返して。

『グミ・チョコレート・パイン』なんかも最初は短篇だったんです。そうしたら編集さんがまた「オーケンこれ最高だから続きを書いてよ」と言われ、結局そこからズルズルと書くようになりました。

 ミュージシャンって本業の音楽があるから、みんな1度か2度は文章を書くんだけれど、だんだん書かなくなるんです。それが普通なんですよ。だって本業は音楽だもの。でも僕はたまたま周りが天才的に楽器のうまい人ばかりで、彼らとバンドをやっていてデビューしちゃっただけで、自分がミュージシャンになりきれていないっていう妙なコンプレックスがあったんです。それで、なんか他に自分に向いてることないかなと、いろんなことに挑戦してみようと思っていました。その中のひとつに、文章を書く、というものがあったんです。あと、やっぱ本屋小僧だったので、自分の本が書店の書棚に並ぶのがうれしかったんでしょうね。で、ズルズルというか、続けちゃったんですよ。続けたらだんだん書くのがきつくなってきたな。

――それで「くるぐる使い」や「のの子の復讐ジグジグ」で星雲賞を受賞されたり、両作を収録した『くるぐる使い』が吉川英治文学新人賞の候補になったり、『ステーシー』が日本SF大賞の候補になるなど、注目されて。

大槻:ありがたいことに『くるぐる使い』が吉川英治文学新人賞の候補になりましたが、その時の選評を読んだら、「明らかに全然その域に達していない作品もあった」みたいなことが書かれてあって、それは完全に僕のことなのよ。そんなの勝手にそっちが候補にしたんだろうがよと思ってちょっとイラっとしましたけどね。でも、変な言い方になるけれど、あれは落ちてよかったです。もしも何か間違って吉川英治文学新人賞を受賞していたら、僕、勘違いしていたと思うんです。そのまま泥沼を匍匐前進してジャングルを進むがごとき小説執筆沼に突っ込んで、自滅していたと思う。いろんな仕事をさせていただいたけれど、小説を書くのは本当に大変でしたから。

 だから、職業小説家の人たちのことは、心の底から尊敬しているんです。いや〜スゴい。本を書くというあの大変な作業をお仕事にされているというのは実にスゴい! さらに面白い小説を読むと、素直によくこんなの書けるよなって思いますし。

 ロック、テレビタレント、ラジオパーソナリティ、作詞家、俳優、もうなんでもやってみたけれど、小説仕事が一番きつかったよ。

「最近の読書、いま好きな書き手」 

――同世代の作家の小説はあまり読まれないんですか。

大槻:たまに読みますよ。でも少ないかもしれない。なんて言ったらいいのかな、これは全然批判とかなんかじゃないんですけれど、国内小説を読んでいると、小説を読む人のために書かれている感があるなと思うことがあって。非常にちゃんとしていて、小説を読む人の常識内の世界観で書かれてらっしゃる気がするんですよね。

 特に今時は、スマホをずっといじることをせず本を読む人って、それなりにきちっとした人だと思うんですよ。本を読むのはちゃんと勉強してきて、ちゃんと本を読んできた人だから、そういう人たちに読んでもらうためには、やっぱりちゃんとしていないと駄目だ、っていう感じなのかな。これはいい意味なんですけれど、書いている人も読んでいる人も、きちんとした道徳観を持ってらっしゃる。

 それは音楽にも感じることで、きちんと音楽を聴いてきた人用の音楽ってあると思う。そこに何か今、入り込めない自分がいるのは感じますね。

 もっと、本を読んでこなくて、本を読む態勢にも書く態勢にもなかった奴が書いちゃった、っていう小説が出てきたら「なんだこれ」と思って読んじゃう気はします。

――最近は、書店には足を運んでいますか。

大槻:しょっちゅう行ってます。行っているんだけれど、なかなかビームを感じないんですよね。今はちゃんと読んでいるというと、「本の雑誌」と「映画秘宝」と「秘伝」と「ムー」と、「昭和40年男」っていう雑誌くらいかなあ。

――「昭和40年男」という雑誌があるのですか。

大槻:そうですよ。たぶん、出版社が今後雑誌をどう売っていくかと考えた時に、世代に特化すべきじゃないかって思ったんでしょうね。「昭和50年男」とか「昭和45年女」とか、いろいろなバージョンが出ていて、その世代にドンピシャなことしか書いていないんですよ。「昭和40年代男」には僕も連載しているんですけれど、あの雑誌はやっぱり読んじゃいますね。僕は「窓から昭和が見える」っていう、毎回お題にあわせた文章を書いています。映画特集だったら映画のことを書く、とか。

――映画館には行かれていますか。最近は配信されるものもたくさんありますが。

大槻:以前より数は減ったけれど、映画館に観に行っています。最近は「これが観たい」というより、「一応押さえとこうかな」みたいな感じですかね。一応ゴジラの新作は観ないとな、みたいな気持ちで行っています。

 配信のドラマも最近観るようになりました。SFの「三体」が面白くて全部見ました。チェスの天才少女の話の「クイーンズ・ギャンビット」も全部見たかな。これも面白かったですね。ヒロインがステキで。あ、ステキな女性が出てる映画は出来に関係なく好きです。僕は映画って、ステキな女優さんが映ってればそれでもういいみたい。

――読んだもの、観たものは記録していますか。

大槻:昔は読書記録と映画記録はつけていたんですけれど、なくしちゃいました。でも、たいがい読んだってことは憶えています。今も一応読んだ本とかはメモしていますし、わりとXに「これ読んだよ」とか「観たよ」と書いているので、それを遡れば意外と記録になっているかもしれない。

――ご自身では、もう小説はお書きにならないんですか。

大槻:「ぴあ」のサイトで「今のことしか書かないで」というのを連載していて、これは最初エッセイのつもりだったんですけれど、今はエッセイなのか小説なのかわからないものになってます。エッセイで話を盛っているうちに、どうせ盛るなら妄想を書こうと思っていたら小説っぽくなっていって、今はほとんど小説になっています。限りなくエッセイに近い幻想的私小説ですね。

 あ、先ほど同世代の人の本はあまり読まないと話しましたが、燃え殻さんの小説は好きです。僕、しばらく小説とか書き物の仕事はあまりしない時期があったんですけれど、燃え殻さんの小説やエッセイを読んで「あ、この感じ」と思い、編集者に「燃え殻さんみたいな感じでもう一回書きたいです」と言ったこともあるんです。

 燃え殻さんと対談した時に、実は僕の本に影響を受けているとお話しされていて。実際、燃え殻さんの作品に僕の名前が出てくるんです。燃え殻さんのエッセイ集の『すべて忘れてしまうから』は、対談の時に僕が「いやいろいろあるけれどどうせすべて忘れてしまうから」って言ったらしいんですね。そっからタイトルをつけてくれたらしいです。

 燃え殻さんの書くものって、エッセイなんかでも話の広げ方とか持っていき方がすごくわかるんですよ。とっても共感するものがある。プロレス好きっていうところも一緒だし。

 僕、エッセイで意外に大事なのは、忘れちゃえることだと思うんです。読者が読んだことを忘れて、また手にとってみて、「あれ、このエッセイ読んだことあるな」と思い出す。意図的にそれくらいの湯加減にするのがいいなと思っているんですけれど、燃え殻さんのエッセイがまさにそうで、非常に"忘れ力"がある。だから何度でも読めるんです。あと、くすっと笑えて涙もあるライトエッセイ的なものはやっぱり好きなので、自分もまたやりたいなと思いましたね。

 それと、掟ポルシェさんというミュージシャンも面白いものを書きますよね。掟さんが書いたアルバイトの本があるんだけれど(『男の!ヤバすぎバイト列伝』)、これなんてとても面白くて。彼はすでにいっぱい書いているけれど、笑って泣ける小説やエッセイをもっと書いていってほしいなと僕は思っています。あとは、杉作J太郎さんの小説とかもまた読みたいな。

――燃え殻さんの小説を読んで「自分も書きたい」と思ったのは、どういう作品ですか。

大槻:やっぱり青春の回想っていう部分かな。青春の頃と現在を照らし合わせて、そこから何か新しいものを見出していくところ。自分の過去をどうやって現在の自分の中で物語として広げていくか、ということを僕もやってみたいなと思ったのは確かです。

 だから、現在の書き手の方々の小説も、もっといろいろ読まないとなあ。ついついスマホをいじってしまうんですけれど(笑)、いやあ、ちゃんとがまたたくさんのいろんな本を読もうと思います。

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