九月の半ばにウィーンに行った。美術やオペラ鑑賞、オーストリア菓子研究にカフェ巡りとしたいことはたくさんあったが、一番の目的は日常を離れてゆったりと優雅に過ごすことだった。そのために、ちゃんと湯船に浸(つ)かれるバスタブのある、サービスの評価の高いホテルを選んだ。
食べたいものリストのひとつに「STURM(シュトルム)」があった。ワインになる前の発酵途中の飲み物だそう。発酵し続けているため輸送は難しく、ワインの産地近くでしか飲めない、と聞いて是非(ぜひ)とも現地で体験したいと思っていた。発音がわからないので、手持ちのメモに「STURM」と書き、食事をするたび店の人に訊(き)いた。「まだ早いよ」と首を横に振られた。「葡萄(ぶどう)はちょうどいま摘んでいるところだから瓶詰めはまだ先。あと一週間くらいしたらホイリゲに行ってみたらいい」と私にもわかるように英語で教えてくれた。ホイリゲはワイン農家直営の居酒屋のようなものだという。
いま、同じ地で葡萄が摘まれているのかと思うと、より飲みたくなった。観光や観劇やカフェの合間に「STURM」探しにいそしんだ。どこの店員も「まだ早い」と言った。
そうこうするうちに旅も終盤になり、天候が崩れた。最高気温が二十度近く下がり、強い雨風や雹(ひょう)で道行く人の傘がどんどん折れ、テラス席は無人になった。ホテルは暖かく快適で、ルームサービスの人が果物の盛り合わせや菓子やナッツなどをワゴンにのせて持ってきてくれる。ホテル内にはカフェもレストランもバーもある。部屋で大人(おとな)しくしていたら、近所のスーパーに行った夫が顔を輝かせて帰ってきた。「STURM!」と手に持った大瓶を掲げる。大喜びで酒盛りをした。甘くて、しゅわしゅわで、濁っていて、まさに葡萄ジュースとワインの中間のような味でごくごくと飲めた。外は嵐だったが幸せな気持ちでのんびりとした。「STURM」はドイツ語で「嵐」という意味らしい。嵐が旅の一番の目的を叶(かな)えてくれた。=朝日新聞2024年11月6日掲載