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「喉に棲むあるひとりの幽霊」書評 詩人の美しく不穏なモノローグ

評者: 小澤英実 / 朝⽇新聞掲載:2024年12月14日
喉に棲むあるひとりの幽霊 著者:デーリン・ニグリオファ 出版社:作品社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784867930403
発売⽇: 2024/08/15
サイズ: 13.2×19cm/296p

「喉に棲むあるひとりの幽霊」 [著]デーリン・ニグリオファ

 読み終えて、しばしぼうっとしてしまう。数世紀分のアイルランドの変わりゆく場所と景色、その地に生きた女たちの人生をぎゅっと閉じ込めた、圧倒的な没入感のトンネルを潜(くぐ)り抜けたようで、なかなかこちらの世界に戻ってこられない。
 4人の幼子を育てる母親である詩人は、苛酷(かこく)な日々のさなか、18世紀に作られたあるクイネ(女たちがアイルランド語で歌い、口伝えで受け継がれてきた哀歌)に魅せられる。その作者アイリーン・ドブ・ニコネルは、殺された愛する夫の傍らに跪(ひざまず)き、その血を掬(すく)って飲んだという。詩人は睡眠を削り、残存するアイリーンの痕跡を辿(たど)り、その詩を自分の手で翻訳しようとする。だがその傾倒は、しだいに死者へのストーキングめいた妄執に憑(つ)かれていく。
 歴史や文学史のなかで消去された女の声を甦(よみがえ)らせようとする詩人は、幽霊のような自分自身の生を取り戻そうとしているかにみえる。母業を愛し育児に献身する詩人は、自己を消去することの愉楽と美徳に身をゆだねつつ、他方では子どもを送迎する車内で、消去に抗(あらが)うテクストを書き記す。引き裂かれた自己の緊張感が、静かに内面に沈降する詩人の美しく不穏なモノローグに満ちる。
 アイリーンの一族が生きた過去と詩人のいる現在、ふたりの女性の人生、詩人の幻視と現実が、テクストのなかでひとつに溶け合う。ベンヤミンなら歴史の瓦礫(がれき)と呼ぶような、割れた食器のかけらや爪の破片といった生活のささやかな断片が、世界の一部を永遠に構成しつづける。
 詩人は、母と娘が繫(つな)げてきた生を、自分の生とより合わせてテクストに紡いでいく。母性神話の強化と取られかねないあやうさもある。だが本書は、そう一蹴してしまうことでかき消される女の声を、すべての人間は女から生まれたというゆるぎない真実を、言葉のからだを押し開き血と乳を滴らせるようにして、白紙に刻み込んでいる。
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Doireann Ní Ghríofa アイルランドの詩人、著作家。アイルランド語と英語で執筆。