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映画「ゆきてかへらぬ」木戸大聖さん×根岸吉太郎監督 中原中也になりきって表現する、純粋さと喪失感と

木戸大聖さん(左)と根岸吉太郎監督=junko撮影

(C)2025「ゆきてかへらぬ」製作委員会

行間も理解しないと中也に近づけない

――まずは今回の脚本を読んだ感想を教えてください。

木戸大聖(以下、木戸):実際にはもっと長い時間をかけて作られたであろう泰子と中也、小林という3人の関係性が、この一作にぎゅっと凝縮されていて、とても厚みを感じました。台本を読んでいても、ページをめくるごとに展開的に大きく変わっていたり、中也の心情が変わっていたりして。もっと言うなら、行間ごとに全然変わっていることもあったので、その間をしっかり理解しないと中也に近づけないなと思い、いつもよりページをめくるのに時間がかかりました。

 その中で出来上がる3人のバランスや関係性というのは「純愛」だけでないんですよね。お互いが埋め合って支え合って、それが彼ら自身を形成しているという部分が美しく描かれていて、三角形になった時のひとつの点をしっかり演じ切らないといけないなと感じました。

――根岸監督にとっては本作が 16年ぶりの長編映画となりますが、脚本のどんなところに惹かれたのでしょうか?

根岸吉太郎(以下、根岸):僕はもともと中也が好きなので、本の全てに惹かれました。中也と小林という素晴らしい才能を持った2人が社会的にまだ認められてない時に、お互いを認め合って、なおかつ自分が発見者のようにお互いのベクトルが向かい合っている。そしてその間に泰子という一人の女性がいる。彼女自身も女優という特殊な職業を目指して「何か」になろうとしている3人なんだけど、泰子は2人のように大成はしない。そんな中で泰子は精神に病んでしまうところが悲しく見えてさ。

 誰か一人を抜いても必ず2人の影があって、その人を取ったらもう一人の影がある。この3人の微妙で不思議な三角関係が非常におもしろいなと思いました。

――木戸さんは今回の役作りにあたって、中原中也記念館を訪れたり、作品や資料を読み込んだりしたそうですが、どんな人物ととらえましたか。

木戸:中也はとても繊細でまっすぐな人だなと思いました。この作品に入るまでは、傍若無人でいろいろな人に噛みつくというイメージが先行していたのですが、知れば知るほど、そして現場に入って監督の演出を受ける中で、自分が勝手に思っていた中原中也のイメージが大きく変わりました。

 中也は世間に自分の作品が認められたいという、至ってシンプルで純粋な願望を持っているけど、その出し方が周りに認められなかったり拒絶されたりして、孤独を感じている。そんな彼の人間性を考えた時に、自分のアプローチが最初に描いていたものより変わったことはありました。

 

中也の多面性を表出できる可能性

――本作の実現が難しかった理由として、中原中也にふさわしい俳優になかなか巡り合わなかったことがあるそうですが、木戸さんのどんなところに「中原中也」を見出したのでしょうか。

根岸:僕は木戸くんが出ていた「初恋」を見ていたのですが、その時にいつか一緒に仕事をしてみたいなと思っていました。中也役はオーディションをしたのですが、そこで中也の「骨」という詩を読むというパフォーマンスをしてもらったんです。ずいぶんたくさんの若い俳優さんを見てきたけど、その時の木戸くんの目の光に、中也の持つ純粋な部分とその奥にある悲しみを感じました。なおかつ、子供のような無邪気さがある。その一つひとつが中也の多面的なところであり魅力的なところなので、そういったものを表出できる可能性が彼にあるなと思い、木戸くんに演じてもらうことにしました。

木戸: 監督は衣装合わせの段階から中也のトレードマークであるハットにとてもこだわっていましたよね。ツバの幅ひとつにしても、いろいろな帽子を試したことが印象に残っています。

根岸:木戸くんがかぶると、ちゃんと中也に見えるんですよ。きっと皆さんの中には、帽子をかぶった中原中也のイメージが出来上がっているからね。あれは嘘だっていう人もいるけど、誰が見ても「これは別人じゃない」と思わせるのは、結構大事なことなんです。

 

――現場での木戸さんの演技をどうご覧になりましたか。

根岸:木戸くんの演技は、常に誰か相手がいるんですよ。例えば、登場した時から泰子がいて、中也は彼女に向かっていく。そういった中で、木戸くんに演じてもらった中也は泰子がどう反応するかによって芝居が変化していくから、その変化が間違っていなければいいんです。そういった意味では、相手役も恵まれていたと思います。

 広瀬すず、岡田将生という俳優も演技のキャパシティーが大きいし、相手役の俳優を受け入れて一緒に作っていこうという意思を強く持っている人たちでした。その中で今までの木戸くんの中になかったものや、新しい一面が出ていると思うので、僕がどうというよりも、一緒にやっている俳優さんたちが木戸くんから引き出したものだなと思います。

中也が乗り移っていた

――作中では、「地獄の季節」や 「朝の歌」といった作品が出てきましたが、役や作品を通して「詩」という世界に触れてみていかがでしたか。

木戸:「詩」は読む人それぞれに解釈があるなと思いました。撮影中に「地獄の季節」や「朝の歌」を詠むシーンがきた時も、その時の中也さんがどう思っていたのかということは、僕がどれだけ深く考えても追いつけない部分やたどり着けない部分があるので、自分が素直に感じたもの、解釈したものをそのまま表現しようと思って臨みました。それに、この作品を観てくださる方がそれぞれの解釈をしてもらえればいいし、それがどういう刺さり方をするかも一人一人違って当然だと思います。

 例えば歌でいうと、その1曲が万人にうけるわけではないし、聞く人それぞれに刺さるフレーズがあるように、いろいろな残り方があると思うんです。中原中也という人が生んできた詩が今でも多くの人に読まれ続けている理由も、そういうところにあるのかなと思いました。

根岸:俳優が映画の中で詩を詠むのは、結構難しいんですよ。ただ朗読しているだけになって、白けてしまうことがある。それを避けるために、字幕が出たりすることもあるけど、今回は一切そういうことをやらないと決めていました。客観的にみたら「タバコとマントの恋」の詩を声に出しながら彼女のところに行くって変でしょう。だけどそれが違和感なくできているのは、木戸くんに中也が乗り移っていたから、自然と日常や会話の中で詩を詠むことができたのだと思いますね。

 

奥底に流れる深い悲しみ

――本作では中也の「どこか背伸びしている少年性」も描かれていましたが、中也の魅力とは何でしょう?

根岸:とても美しい言葉でつむぎ出すんだけど、奥底には大きな悲しみがあって。それは幼い時に弟を失って芽生えた喪失感で、彼はもうそこから逃れられない。そんな深く汚れてしまった悲しい感情が、脈々と流れているんですよね。それを本人がどこまで意識したかは定かではないけれど、恐らく意識したうえで、いろいろな情景を詠んでいるのだと思います。

「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」といった冒頭で始まる「サーカス」のような有名な作品にしても、彼の奥底にはそういうものが流れている。だけどそれをいやらしく押し売りしていないし、自分の中に潜めて、きっちりと抑えたまま詩を詠むことに命をかけたのだと思います。

木戸:中也は「生きる=死」と捉えて、それを表現することに自分の全てをかけていたのかなと思いました。泰子を失った時の喪失感といったマイナスの感情をも「これは何かの表現にできないか」と考え、それによって「死」を捕まえようとしていた。その表現者としてのあり方は、僕もお芝居という形で表現をしていく身として、かっこいいなと思うところです。