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「韓国ドラマの想像力」インタビュー 社会学者3人が見つめた、フィクションで現実に迫る熱量

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「想像力」に触発されて起きること

――まず、どうしてこの本を出そうと? 

 コロナ禍で、日本の多くの人が韓国ドラマを見る機会を否応なしに与えられましたよね。配信されている韓国ドラマがたくさんありましたし、第4次韓流ブーム自体がコロナ禍のステイホームと非常に関係が深いものだった。その現象も含めて、これをふりかえっておきたかったというのがきっかけでしょうか。

――タイトルに「想像力」という言葉を使っていますけど、社会学的には、別の意味があると。

山中 3人でいろいろ議論をしている間に「想像力がひとつのキーワードになる」という話になりました。「想像することが持つ力」を韓国ドラマに強く感じたということです。想像力という言葉はミルズの「社会学的想像力」とかジェンキンズの「市民的想像力」などのように、社会を理解し、現実にある出来事を解釈して、日常にあるものごとを社会的な問題に接続させていくような回路とも説明できるので、もしかしたら韓国ドラマを見て、そういう「想像力」に触発されること自体が韓国を知ったり、日本の社会をもう1回理解する通路になったりするのではないかという話になりました。

目をひく大胆な「想像」と問いかけ

――やや専門的になったので、ひとまず1人ずつ作品を紹介して、その作品の中で想像力はどう展開しているか説明してください。

平田 紹介したい作品はいろいろあるのですが、あえて挙げるとすれば「愛の不時着」と「サバイバー:60日間の大統領」(アメリカのドラマ「サバイバー:宿命の大統領」のリメイク作ですね。どちらのドラマも南北分断が背景にあり、リアリティーを追求すると同時に描かれる大胆な「想像」部分が目をひきます。

 まず「サバイバー」では、国会議事堂が何者かに爆破され、大統領、国務総理など多数の人々が犠牲になります。国務委員のなかで唯一生き残ったのが環境部長官の主人公。彼は大統領権限代行として、南北関係めぐる韓国内外の葛藤をはじめ、山積する課題に直面しながらも、持ち前の良心に従って決断を下していこうとします。権力欲のない政治の素人が、人間としてすべきことをする。あり得ないかもしれないけれど、政治とは本来そこに暮らす人々が平和で豊かに暮らすためにあるものではなかったか、ということを問いかけているようなドラマです。

 また、「愛の不時着」は、韓国の財閥家の女性が北朝鮮に不時着するという展開で、歴史的・政治的な事情で実際には行くことのできない場所との接続点を作り出しています。そうした想像力をもって希望や理想を描くことで、困難はあるけれども救いのある世界が展開されている。まさにフィクションの持つ力ですよね。

山中 この本で取り上げた作品はどれもおススメなのですが、私は「秘密の森」を取り上げたいかな。韓国ドラマってロマンスジャンルや、劇的な展開が多い、いわゆる「マクチャン」のイメージがあるかもしれないんですけど、この作品は2010年代以降の、制作システムの多様化の中で登場してくるジャンルドラマの一つなんです。

 「秘密の森」は韓国で実際におこった犯罪が暗示されつつ、それにどう立ち向かうべきなのか、何が障害なのかが「想像」されているんですけど、それを、日常に巡らされた関係がどう積み上がっていって逃れられない権力関係になるのか、そこにある息苦しさをふまえて丁寧に描いていて面白いんです。

 韓国ドラマ定番の財閥との癒着とか、検察の闇とかも出てくるんですけれど、そこで生きている検察や警察の人達が、淡々と自分の業務をこなして自分の立ち位置を意識しつつ仕事している組織人なのも良くて、いろいろ問題がある中で、韓国社会に住む自分たちはどうふるまい、どこを目指すのが「理想なのか」ということを表現していると思います。そうか、そうありたいよね、とうなずきながら見られる。没入度を上げるキャスティングもいいですよね。

 僕は一つ選ぶとしたらやっぱり「キミはロボット」(原題:お前も人間か?)かな。人間とアンドロイドの交流を描いたドラマなんですが、韓国社会の中で「人間ってこうあるべきだよね」というものが投影されていると思うんですね。AIが人間に近づくことができるのか、近づいて何が起こるのかを一つの事例として見せてくれていると思います。

 主要登場人物の「ナム・シンIII」というアンドロイドに求めているものは登場人物みんな違っています。ナム・シンの母親であり、アンドロイド「ナム・シンIII」の開発者であるオ・ローラは息子としての「ナム・シンIII」をすごく求めているし、ソボンは恋人もしくは守ってくれる人を求めている。「ナム・シンIII」は、それぞれに全部対応しようとするんですよね。しかも中立的に。そこが人間らしからぬところですね。一方で、人間って本当にヒューマニズムをもって人を愛せるのかといったらそうでもないかもしれない。裏切りもするし、嫌なこともする。アンドロイドよりも冷たくて残酷ない一面がある。そのあたりの想像をかき立ててくれるところがこの作品の面白いところですね。そう思って何回も見ました。

日本でもベストセラーになった『82年生まれ、キム・ジヨン』(C)朝日新聞社

自分たちの社会を客観的に見る練習

――皆さんは日本で社会学を研究しています。この本ではそこもポイントだと思うのですが、日本社会との対比や、コンテンツの受け入れをどのようにとらえていますか。たとえば小説ですがチョ・ナムジュの『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)が日本でベストセラーになった背景には、小説に描かれた韓国における女性の立場に、日本の女性が読んで共感する部分が多かったという事情もありました。

平田 共感できる部分もあるだろうし、自分たちなりに想像できる部分があるのではないでしょうか。苦痛が似ているというだけでなく、違う社会におけるシミュレーションが魅力的に映ったということもあると思います。社会学で言う「他者の合理性」ですけれども、自分とは異なる存在がなぜそういう世界観を持って、そういう解釈をしているのか、そこを理解したいというのが社会学の重要な考え方だと思います。

 韓国の人たちがなぜこういうドラマをつくり、こういうカットを描いているのか、そこにある筋道は何なのか。そこで理想とされる人間像とか、社会のあり方とか、社会問題の解決の仕方とかを理解することは、韓国社会がどういう葛藤を抱えているのかを知ることであると同時に、そこと自分とのつながりを想像し、さらには自分たちが置かれた社会の葛藤を客観的に見る練習をすることでもあると思います。そういうリテラシーを鍛えていくことが、自分が置かれている社会についての想像力を働かせるようなときに役に立ったりすると、よりいいのではないかと思います。

(左から)平田さん、森さん、山中さん=吉野撮影

一緒に切り込んで、さらに楽しめたら

――ドラマを微に入り細に入り解説していて「こういう解釈もあったのか」と思いながら読みました。

平田 言うまでもないことですが、この本に書いてあるのが絶対的な見方というわけではありません。読者には、自分だったらどう解釈するだろうか、ということを考えながら読んでいただけたらと思っています。

 一方で、なぜ有名な作品が入っていないのかと、編集者の方にご指摘をいただいたこともありました。たとえば「イカゲーム」。

――なぜですか?

山中 「イカゲーム」はグローバルな配信の枠組みの中で、普遍的な部分が大きくなってしまった作品なのでは、と考えて除きました。だからこそ韓国のことをあまり知らない人も楽しめたんだと思うんですが、これを足場にして韓国社会のローカルな文脈に踏み込むのは難しいと感じたので。

 この本で扱う韓国ドラマに私たちが求めたのは、よりローカルな面白さだったので、それが脱色されてしまう率が高ければ高いほど、問題意識がぼやけるような気がしました。もちろん、「イカゲーム」はドラマとしてよくできているので、夢中で見たんですけどね。

 一方で、普遍性か個別具体性(ローカルさ)かという議論は、それこそドラマを丁寧に見て行かないと単純には分けられないですよね。私が本で扱った『補佐官』(I&II)も、政治権力と正義の執行という意味では普遍的な話なのですが、やはり韓国らしい正義の貫き方が描かれているわけです。「罠の戦争」(カンテレ製作/フジテレビ系列、2023年)とは似ているようで全然違う。韓国の政治システム・市民社会という空間軸と、民主化以前以後そして先進国になった現代韓国という時間軸という二つの軸の中で翻弄されながら、主人公は自分にとっての正義とその執行とは何であるのかをもがきながら選択していくのです。

 韓国において「正義」の執行の仕方は変わったのかなと思わせてくれる作品には「ヴィンチェンツォ」もあります。「砂時計」(SBS、1995年)との違いに考えさせられました。

――やっぱり適度にローカルであることは必要なんですね。日本と韓国は地理的・歴史的な条件も近いから、ローカルな社会の要素も共通する部分は大きいという気もするし。

山中 そうなんです。しかも日本と韓国の間には特に2000年以降、ポピュラー文化の蓄積が進んできました。もちろんいろいろ誤解もあるけれど、お互いの国に対するイメージをみんなある程度詳しく持っている。だから韓国ドラマのローカルなところ、日本と共通しつつも異なっている、という部分が日本の視聴者には楽しめるんじゃないかと。だからこそこの本では、ローカルな部分に一緒に切り込んで解釈を広げ、さらに楽しめたら、という気持ちで作りました。

 韓国のローカルさは、日本の視聴者にとっては、何というか親しみやすく理解しやすい部分が多いから楽しめるでしょうね。一方で、そのような日韓の共通性にドラマの意味を回収して理解することには危険な点もあると思います。情緒が似通っている分、韓国社会を分かった気になってしまう。その反動で「なぜ韓国人は日本のことをもっと理解してくれないのだろう」と思う人もいます。韓国ドラマのローカル性は、日本の視聴者にとっては理解しやすく楽しめるという意味でアドバンテージではあるけれども、その分、日韓の重要な違いについてスルーさせるところもあると思います。違いに気づきにくいというのかな。この点はもっと考えてもよい点だと思います。