なんて冷たくて熱い物語なんだろう。濃い闇がつれてきたような年上の男との、ひと夏の恋。
物語の主人公は柏木藤子。会社の昼休みで、目当てのインドカレー屋に入った藤子は、編集者を名乗る男から、一冊の写真集を渡される。写真家の名前は廣瀬全(ひろせぜん)。自分が被写体となったその写真集を、藤子は一度たりとも手に取ろうとしてこなかった。全との間に起きたことを忘れたことなど、一度もなかったのに。
そこから、時間は藤子が二十歳の夏に遡(さかのぼ)る。父親が死んでひとりぼっちになった藤子のもとを深夜ふらりと訪れたのは、彼女が物心ついた頃から「廣瀬写真館の不良息子」と呼ばれていた、父の友人である全だった。誰かに斬りつけられたと思(おぼ)しき腕は、ぐっしょりと血にまみれていた。
この夜以降、二十歳の藤子が、父親より年上の全にひたひたと惹(ひ)かれていく様が描かれる。それは抗(あらが)いようのない恋だった。
この全がね、なんというかワルい男なんですよ。でも、だからこそ、たまらない色気がある。己を見失うほど全に狂わされた女は一人や二人ではないだろう。
本来なら、小娘が太刀打ちできるような相手じゃない。でも、藤子の想(おも)いは止められない。死んだ自分の娘と同じ年頃でもあり、一度は藤子と距離を置いた全だが、藤子の必死さを受け止めざるを得なくなる夜がやってくる。その後に訪れた蜜月と、唐突な別れ。
出会ってしまったことの幸福と絶望。そのどちらの甘美さまでもが、端正かつ精緻(せいち)な筆致で描き出されている。あぶり出されるのは、恋愛の本質だ。
藤子のしなやかな食欲と生命力が醸し出すエロスが、物語を濃密に彩る。哀切な恋愛小説であり、傷みを抱えてなお生きていくことへの肯定が、強く響いている物語でもある。=朝日新聞2026年6月13日掲載
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文春文庫・803円。22年7月刊、14刷11万5千部。担当者によると24年春に書店員が作った「ハマったら何かが壊れてしまいそうなのに、惹かれてしまう」というPOPをきっかけに急伸。「20代女性読者が多いのも特徴」という。