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「音盤の来歴」 抑圧された人々の自由を叫ぶ声 朝日新聞書評から

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2025年04月12日
音盤の来歴: 針を落とす日々 著者:榎本空 出版社:晶文社 ジャンル:エッセー・随筆

ISBN: 9784794974631
発売⽇: 2025/03/12
サイズ: 1.6×19cm/240p

「音盤の来歴」 [著]榎本空

 アメリカの神学校に通い、教会で働き、大学院で学び、いまは沖縄の伊江島に暮らす著者。その音盤とともにある日々を綴(つづ)った本書には、何人もの印象的な人たちが登場する。寮で同居していたドクターQは、辛辣(しんらつ)な音楽批評をぶつ一方で、長い路上生活の名残か、いつも何かに怯(おび)えていた。日系教会に通う心優しいフランシスコは、メキシコからの移民だった。第1次トランプ政権発足後の移民排斥の動きの中で、彼は姿を消してしまう。同じ教会で知り合ったアントワネットは、奴隷としてこの国に連行された祖先の「故郷」であるガーナを、いつか訪れたいと語っていた。
 それぞれの孤独や喪失を抱えながらも、温かさとユーモアに満ちた彼らとの日々を通して垣間見えるのは、アメリカ社会のひずみだ。人種主義や家父長制などと呼ばれる、きりもない差別と抑圧が、いかに生身の人間を追い詰めるのか。でも、それだけではない。本書が伝えるのは、多数派から排除されてきた人々の生の尊厳と深みであり、その気骨だ。連綿と受け継がれてきた痛みの深淵(しんえん)から声を上げ、手を差し伸べあう。その声と身振りを体現するのが、本書に登場する音楽だ。
 たとえば1972年、暴動の記憶も生々しいロサンゼルスの教会でアレサ・フランクリンの歌う「アメイジング・グレイス」。2005年にニューオーリンズを襲ったハリケーンの後、自らも被災したアラン・トゥーサンの作った「ザ・ブライト・ミシシッピ」。そうした音楽に身を投げ入れることは、不本意に亡くなった死者たちの「焦がれと怒り、ありえたはずの未見の未来に炎を灯(とも)す」ことだ。それはまた、苦痛に満ちたこの現実の中で、ありえるかもしれない世界を想像することの自由に根ざしている。
 アメリカ社会で周辺化されながら、歌と言葉を通して自由を希求してきた人々の姿は、いままさに世界の各地で起こっている暴力によって傷つき、殺されていった人々、その死を嘆き、悼み、暴力に抗(あらが)う人たちの姿に重なる。著者はいま、戦争と占領による惨禍と抑圧を経験してきた島から、その苦難と尊厳に満ちた歴史を書くことを通して、そうした世界の隅々の地と関わろうとしている。その根底にあるのは、忘れえぬものを傍らに引き寄せ、そのそばに留(とど)まり続けると決意する勇気であり、ありえるはずの世界への焦がれでもあるだろう。
 本書には、アメリカで、沖縄で、世界のそこここで暴力に抗い、自由を叫ぶいくつもの声が響いている。それは生者と死者を結び、奮い立たせる霊歌である。
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えのもと・そら 文筆家、翻訳家。1988年生まれ。沖縄県伊江島で育つ。大学院で神学を専攻、台湾留学を経て米国で神学と人類学を学ぶ。著書に『それで君の声はどこにあるんだ?』。訳書に『母を失うこと』など。