新たな一歩 制約の中でも動き続けた先に 羽田圭介

なにか新たな一歩を踏み出そうとしている人たちに向けての本を紹介する。まずは不朽の名作たる旅小説、沢木耕太郎『深夜特急』(新潮文庫・1~5巻各693円、6巻737円)。26歳の〈私〉は東京での仕事を投げ出し、旅に出る。インドのデリーからイギリスのロンドンまで、ユーラシア大陸を乗り合いバスで行ってみたい、と。第1巻の冒頭時点で〈私〉はデリーの安宿のベッドで寝てチャイを飲みに行き、食事して戻ってくるという無為な生活を送っている。ところが同じ安宿に連泊している旅人のうつろな目を見て、次の場所へ移動しなければという焦燥感に駆られる。鉄道駅構内の旅行案内所の男に〈私〉は目的地の町へバスで行く方法を尋ねるも、鉄道で行けと怒られる。そのほうが早いし安全なのだから、と。「でも、バスで行きたいんだ」という〈私〉の主張に、人々は不可解さを示す。可能な限り陸地をつたい、地球の大きさを知覚する手がかりを得たいという理由のみの己に課したゲーム性により、旅は難しさを帯びるのであるが、〈私〉はその制約の中でこその旅を楽しみ、移動し続ける。
文庫版のとある巻末対談で、昔行って感動した場所や状況に関し、数年後に同じ事をしても全然心動かされなかった、という会話がなされる。初めて読んだとき僕は中学生だったが、人生経験を重ねる中で、その通りだという思いを深めていった。その時々でしか感じられないような特有の経験はたくさんあり、それらを逃さないためにも、動き続けたほうが豊かな人生を送れそうな気がする。
僕自身、あまりよく知らなかった東欧の4カ国を、2019年2月に仕事で旅した。中でも当時NATO(北大西洋条約機構)に加盟する直前だった北マケドニア共和国の、11年に完成したアレクサンドロス大王が愛馬にまたがった巨大なブロンズ像などスコピエ中心街の、真新しい“古風さ”で満ちた撮影セットかのような違和感が、印象深かった。ほぼ同時期に、同じ風景を見ていたクロアチアのジャーナリスト・作家であるスラヴェンカ・ドラクリッチには、スコピエの街がどうしてそう作られざるをえなかったかについての、隣国ギリシャも含めたアイデンティティに関する問題まで見通せている。『ポスト・ヨーロッパ 共産主義後をどう生き抜くか』(栃井裕美訳、人文書院・3300円)には、共産主義終焉(しゅうえん)から30年後の東欧、そこから見た西欧の姿が、市井の生活を通した15編の鋭いエッセイにより書き表されている。日本語版の序盤において筆者は、ウクライナに住む友人とのメールのやりとりを紹介している。22年2月23日の時点ではキーウの人々は避難計画を立て救命講習に参加しつつ、〈カフェやレストランにも行くし仕事もする〉。それが24日のロシアによる攻撃で崩れた。〈都市部に住んでいる人ほど戦争の始まりを把握するのが難しい〉と筆者は指摘する。厄介事だけでなく、良い事であっても、それらを事後的に把握するのではなく、今起こっている事として知覚するアンテナは、なにかを始めようとしている人たちにとっても大事だろう。
中島京子『夢見る帝国図書館』(文春文庫・891円)では、小説家の女性主人公が15年前に上野公園のベンチで白髪女性「喜和子さん」と知り合ってからの交流が描かれる。図書館が主人公の小説を書いて、と言ってくる喜和子さんの過去が明らかになってゆくにつれ、人は本人が望んでいない境遇の中でずっと耐え忍ぶ必要などなく、人生の後半からであっても、夢を見て自分が望む自分として生きてもいいんだな、と背中を押してもらえるような読後感にひたれる。=朝日新聞2025年4月12日掲載