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「歩くという哲学」書評 存在することの純粋な感覚巡る

評者: 野矢茂樹 / 朝⽇新聞掲載:2025年04月26日
歩くという哲学 著者:フレデリック・グロ 出版社:山と渓谷社 ジャンル:文芸作品

ISBN: 9784635350020
発売⽇: 2025/02/18
サイズ: 21×2cm/304p

「歩くという哲学」 [著]フレデリック・グロ

 歩く。移動手段としてではなく、歩くことそれ自体。歩いているとさまざまなもの・ことが流れ込み、湧き出てくる。少し私自身のことを書かせてもらおう。私は歩くことを日課にしている。道端の小さな花が、木々の芽吹きが、鳥の声が、私を浸してゆく。私はときに低い山、取り立てて面白みのない山道を歩く。それでどうやら身も心も喜んでいるらしい。
 その喜びを著者はこう語っている。「自分に出会い直すとか、本当の自分だの、失われたアイデンティティだのを取り戻すだとか、そういった話ではないのだ。歩くことによって、人はむしろ、アイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。」
 本書は、歩くことについて、そして歩くことが決定的な意味をもっていた文学者や哲学者たちについて書かれた33のエッセイからなる。「ただ身体的な努力を繰り返しているだけで、精神に『空き』ができる。そうなった時に初めて、ものを考えられる。」私もまた、哲学の思索を進めるときに歩く。空っぽになって歩いていると、思考が滲(にじ)み出て、私という器を満たしてくれる。
 著者はまた、「歩く」というあり方が示す哲学を開いてみせる。「歩くこと以外には何もしなくてよいので、存在することの純粋な感覚がよみがえってくる。」――存在することの純粋な感覚。繰り広げられる多彩な変奏は、まさにその一点を巡っている。
 原書の初版は二〇〇八年にフランスでベストセラーになったという。歩くことのすすめとか解説というのではなく、優れた散文作品として、歩く人はもちろん、歩かない人たちにも届く内容だからだろう。なにより文章が心地よい。翻訳もみごとなのだと思う。並べられたエッセイには、壮絶な話もあり、洞察に満ちた言葉もあり、それらのひとつひとつを、運ばれてくる料理をいただくようにして、ゆっくりと味わうことができた。
    ◇
Frédéric Gros 1965年生まれ。パリ政治学院教授。著書に『ミシェル・フーコー』『フーコーと狂気』など。