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川本三郎さん「荷風の昭和」 都市の観察者が描いた、したたかな庶民の日常

「荷風の昭和」を刊行した評論家の川本三郎さん

 「市隠(しいん)」の文士、永井荷風(1879~1959)は激動の昭和をいかに生きたのか――。評論家、川本三郎さんの「荷風の昭和」(新潮選書、前後篇〈へん〉)は、荷風作品を丹念に読み込みながら、当時の市井の暮らしの細部へと分け入っていく。荷風論と昭和論、二つのライフワークの集大成といえる大著だ。

 川本さんは96年の「荷風と東京」で、荷風の40年余にわたる日記「断腸亭日乗」をひもときながら、東京という場の変容を描いた。本作は同様の手法で、昭和という時代の諸相を検証していく。

 起点としたのは23(大正12)年の関東大震災。荷風は〈江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ。明治の文化また灰となりぬ〉と喪失感を吐露している。

 「荷風に興味を持ったのは、東京が激しく変わった昭和末のバブル期なんです。荷風は大震災を境にモダン都市へと変貌(へんぼう)する東京に違和感を抱きつつも興味を持ち、時代の空気と共に、東京の姿を書き残した人でした」

 世間に背を向けた隠遁(いんとん)者の印象のある荷風だが、多くの作品は街を歩くことから生まれた。帝都一の繁華街となった銀座のカフェ通いが「つゆのあとさき」に、隅田川の風景を変えた荒川放水路の散策をきっかけとした私娼街(ししょうがい)・玉の井への来訪は「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」に結実する。前者は満州事変の起きた31年、後者は日中戦争が勃発した37年に発表している。

 十五年戦争と呼ばれる時期にあっても、荷風は都市の散策者、観察者であり続けた。川本さんは「日乗」の言葉を拾い出し、映画や絵画、同時代人の文章などを引用しながら、大文字の歴史では取りこぼしがちな時代相を描いていく。暗い時代にあっても、意外としたたかに暮らす庶民の日常が浮かび上がる。

 「荷風は軍国主義の時代に世間の風潮になびかず孤立を守り、ひそかに自分の好む小説を書き続けた稀有(けう)な文士だった。一方で戦後は同居人とトラブルを起こしたり、浅草のストリップ小屋に日参したりして、奇人とも好色作家とも言われた。その二面性が面白い」

 これまで文学研究者があまり手をつけてこなかった戦後の荷風について詳述しているのも本作の特徴だ。震災被害を免れた居宅「偏奇館(へんきかん)」を東京大空襲で焼失、東京の東中野、兵庫の明石、岡山と疎開先でことごとく空襲にあう。戦災のトラウマが奇人と呼ばれるふるまいの遠因になったと推察する川本さんは、戦後ほどなくして行き着いた終焉(しゅうえん)の地、千葉の市川での生活を細かく追う。

 「荷風は水辺の人でした。戦前から、隅田川、荒川放水路、江戸川と、東京の東へ東へ、震災以前の風景を求めるように散策し、やがて市川の真間川べりにたどりついた」。50年発表の随想「真間川の記」は小林秀雄や三島由紀夫らが絶賛した名文だ。

 水辺の地で、荷風は再び、散策者として、浅草の歓楽街や水辺の色街を歩き始める。その姿は、都市に住む独居老人の一つの生き方を示している。荷風の戦後を振り返って、川本さんは言う。

 「敗戦後の立ち直りが早かった一つの要因は女性たちの活力でした。荷風は好色かもしれないけど、軍部がはびこっていた時代にないがしろにされてきた女性文化を愛した。それも市井の周縁で生きる女性を。軍人たちの武に対し、女性たちの美に敬意をささげ続けた作家だと思います」(野波健祐)=朝日新聞2025年7月30日掲載