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安房直子・作、岩淵慶造・絵「ハンカチの上の花畑」 恐怖と憧憬が共存するあっち側の世界

 植物を上手に育てる人を緑の指の持ち主と言うけれど、はたしてこの人は何色の指を持っていたのだろう。安房直子の作品に触れるたび、そんな疑問が胸にわく。彼女が遺(のこ)した数々の童話は、頭で考えたというよりも、もともと宙に漂っていた何かを、特別な光彩を宿した指で摘みとった産物であるように思えてならないのだ。作為を感じないが故、そのファンタジー世界は純度が高い。そこは人間の善悪や幸不幸を超越した完全なる別天地だ。時に冷酷なほどこの世からは遠い。

 子どもの頃、『ハンカチの上の花畑』から受けた衝撃は今も忘れない。ファンタジー=ふわふわと優しい物語、というナメた先入観を本書は鮮やかに覆してくれた。

 入口(いりぐち)は柔らかい。郵便屋の良夫が、あるおばあさんから壺(つぼ)を預かる。その中には酒の精たちが棲(す)んでいる。ハンカチを広げて歌をうたうと、小人たちは壺を出て菊の苗付けを始める。みるみるハンカチは花畑と化し、その花びらは壺の中で極上の菊酒となる。飲む者の憂さを晴らし、疲れを癒やしてくれる不思議なお酒。その秘密を知った妻のえみ子は、良夫がおばあさんと交わした約束を破り、菊酒で商売を始めてしまう。

 良夫もえみ子も悪人ではない。が、誰にでもある心の弱さが彼らの日常を狂わせる。追いつめられ、逃げるように町を離れた二人の行く手に待っていたのは――。

 種明かしは控えるが、二人が迷いこんだのは決して恐ろしい魔界ではない。むしろそこにあるのは明るく牧歌的な光景だ。のどかで楽しい毎日。この作家が描くあっち側の世界がしばしばそうであるように、その心地よさはもといた世界への執着心すらも溶かしてしまう。それが怖い。

 人間の心には、この世の通念が罷(まか)り通らない彼方(かなた)への恐怖と憧憬(しょうけい)が共存しているのかもしれない。安房作品が私たちの胸をざわめかせるのはそのせいかもしれない。私たちはこっちに居続けたい。それと同じくらい、あっちへ行ってしまいたいのかもしれない。(作家)

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 あかね書房・1980円。著者は43年生まれ、大学在学中から山室静に師事。代表作に『うさぎのくれたバレエシューズ』『きつねの窓』『遠い野ばらの村』など。野間児童文芸賞など多数受賞。93年没。=朝日新聞2025年8月2日掲載