ISBN: 9784152104359
発売⽇: 2025/07/03
サイズ: 13.7×19.4cm/456p
「焦げついた影」 [著]カミーラ・シャムジー
喪失につぐ喪失の物語である。
主人公の寛子は一九四五年八月九日、二十一歳の時に長崎で原爆に遭い、ドイツ人の恋人コンラッドを喪(うしな)う。戦後まもなく、彼女はコンラッドの姉の住むデリーを訪れ、ムスリムの青年サジャッドと出会う。二人は惹(ひ)かれあい、結婚するが、印パ分離の混乱の中でパキスタンへの移住を余儀なくされる。やがて生まれた息子のラザは、思春期の懊悩(おうのう)の果てに、偶然出会ったアフガン難民の少年とともに山を越え、イスラーム戦士の訓練キャンプへ向かう。
寛子たち家族の人生に、コンラッドの親族の人生が絡みあい、さらに個人を超えた力が彼らの関係を翻弄(ほんろう)する。第二次大戦、印パ戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻、アメリカ同時多発テロ事件。彼らの人生の軌跡を通して、複雑に絡み合った国家間の紛争の歴史と、その渦中を生きる個々人の生の脆(もろ)さが露(あら)わになる。異なる背景をもつ者同士の了解と誤解、共存と断絶の諸相もまた。
寛子もラザも多言語を操ることで異邦の他者と交流し、道を切り拓(ひら)いていく。そんな彼らの才能は、自身の運命を思わぬ方向へ突き動かし、危険に陥れもする。いつも背後に蠢(うごめ)くのは、全貌(ぜんぼう)を摑(つか)むことのできない国家の暴力性だ。あの日以来、寛子の背中に灼(や)きついた「黒い鳥」が、その残酷さを象徴している。
これは痛みから癒(いや)しへ、絶望から希望へという救済の物語ではない。描かれるのは何度も訪れる、容赦のない喪失と絶望だ。その中で、寛子の態度は異色である。彼女は常に自分を保ち、意志的で自立し、だが強い怒りを抱き続けている。核を用いる国家を決して赦(ゆる)さず、その暴力の罠(わな)を警戒しながら、なお彼女は多様な出自をもつ目の前の他者を理解し、助け、愛そうとしさえする。
物語の終幕、新たな喪失を前に、寛子は窓辺に佇(たたず)む。すべてを失ったとしても、それでもまだ、世界は続いているのだ。
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Kamila Shamsie 1973年、パキスタン・カラチ生まれ。作家。英国在住。『帰りたい』でブッカー賞候補。