生きているかぎり、暴力はそこにある。たとえば、愛する者の何気ない一言があなたを傷つける。あなたに良かれと思って、というのがお決まりの言い訳だ。だがその論理を受け入れてしまえば、あなたは踏みにじられ続けることになる。それは個人の関係に限らない。一つの社会が、あるいは一つの国家さえ暴力に晒(さら)される。それは愛ではなく暴力だった。その認識は時に苦痛を伴う。しかし、その苦しみを乗り越えなければ、力を得ることはできない。
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金原ひとみ『マザーアウトロウ』(U―NEXT)で女性たちは、世代を超えて傷を分かち合う。再婚後、初めて蹴人(しゅうと)の母親に会った波那(はな)は度胆(どぎも)を抜かれる。上下金色のスーツであらわれた張子(ちょうこ)は、姑(しゅうとめ)という既成概念に何一つ当てはまらない。即座に波那と「マブ」となり、共に韓国旅行に出かけ、美味(うま)いものを食いまくり、タトゥーまで入れてしまう。だが彼女のアッパーな行動の裏には、暗い記憶が存在する。
幼い頃から極端に落ち着きがなかった彼女は、学校では奇妙な子と見なされていた。成人後に結婚するも夫は平気で不倫をする。それでも彼女は耐えた。「離婚できなかったのは仕事と金がなかったからだし、サーファーになれなかったのは、金と体力のなさと海の近くに住む選択肢を持てなかったせい」。ようやく夫から解放され、自分の収入を得た今だからこそ好きに生きたい。
張子のこの言葉によって、波那の心の傷が引き出される。前の夫は、彼女を性的な人形としか見ていなかった。しかも、デザイナーとして活躍できているのは俺の助言のおかげだと言う。そして、苦しみが頂点に達したとき、波那は夫の前から姿を消す。学校や家庭は、ある正しさを押しつけてくる。けれども、それを受け入れてしまえば、もはや生きられない人がいる。そのような人々が細い糸でつながることで、かろうじて死なずにすむ。金原はそうした、もう一つの共同体を描いている。
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石沢麻依の「糸芝居」(「すばる」九月号)で暴力を振るうのは、大学を中退し実家の部屋に閉じこもった牛頭だ。アリアドネの弟である彼は、家の中のものを手当たり次第に壊す。なぜか。あまりにも厳格な父親と情緒不安定な母親に、ろくに愛されずに育ったからだろう。それが証拠に、彼は呻(うめ)き声をあげ、口からよだれを流しながら部屋で泣き続ける。冷たい家庭は迷宮であり、現代のミノタウロスである牛頭は、暴力の被害者でもあるのだ。
元になったギリシャ神話同様、大学図書館員のアリアドネはテセウスという青年に出会う。だが本作でテセウスは、勇者としてミノタウロスを殺し、アリアドネと結ばれることはない。代わりにアリアドネは、テセウスに命綱である糸を渡さずに、その糸で白い布を編み上げる。そしてそこに編み込まれた非常口を通って、自分自身を解放するだろう。
白い布は、ハン・ガンの「白い花」(斎藤真理子訳、「ブルータス」八月十五日号)にも登場する。主人公の女性は、済州島のフェリーで出会った女性の髪に、白いリボンのついたピンを見つける。韓国では喪の期間、女性たちはそうしたピンを毎日付け替える。そして最後には、喪服と一緒にすべてのリボンを燃やすのだ。まるで蝶(ちょう)のように女性の髪に舞い降りたリボンは、炎と共に天に届き、死者を癒す。
父親が亡くなったときも、母親はそんなピンを付けていた。それだけではない。かつて共産主義者狩りという名目で、この島で多くの人々が虐殺された。その遺族たちは、いまだに長い喪の期間のただ中にある。巨大な歴史は常に人々を踏みにじる。それでも人々は静かに力強く祈り続ける。
今年四月に亡くなったバルガス=リョサの『激動の時代』(久野量一訳、作品社)が扱うのは、一九五〇年代のグアテマラだ。米国は、ハコボ・アルベンス大統領が気に食わない。農地を農民に分配し、企業からはきちんと税金を取る政策を進める彼を警戒する。もしグアテマラがそんな民主主義的な国家になってしまったら、ユナイテッド・フルーツ社の利益が失われるだろう。そこで、アルベンス大統領は共産主義者だというでっち上げを行い、さらに軍事的圧力で政権を転覆させる。中南米の人々の誠実な思いが、大国の自分勝手さに踏みにじられていいはずがない。リョサが生涯抱き続けた怒りが、作品として見事に結実している。=朝日新聞2025年8月29日掲載